エコノミック・ノート

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『「新自由主義批判」批判』に寄せて

新自由主義」を批判する文脈において, 典型的に見られる問題点をリストアップした記事が公開されている:

kozakashiku.hatenablog.com

 

論点が包括的に整理されており, かつ内容が丁寧なので, この話題についてのベンチマークとなり得る労作である. 一方で, 箇条書きという形式のため, 全体を体系的に捉えにくくなっている感もある.

 

蛇足を承知しつつも, 上の記事で指摘された問題点のリストをストーリー立てて再編集する事で, 更に問題の所在と解決の方向性をクリアにしたいと思う.

 

まずは上の記事を一読して内容を把握して頂き, その上でこのエントリを読んで頂くと, よりスッキリと理解して頂けると思う. というか, 上の記事(以下, 元記事)の内容を前提としたいので, 必ず読んでください.

 

① 『「新自由主義批判」批判』の定義

 

元記事を踏まえて, まずは『「新自由主義批判」批判』が結局のところ何であるのかを簡潔に述べる.『「新自由主義批判」批判』とは, つまるところ以下のような主張である:

以下の論法1,2はどちらも不適切である:

論法1. 任意のA (≠新自由主義) について,

  1. A は新自由主義の一部もしくは結果である
  2. 新自由主義は規範的に悪い
  3. 1かつ2より, A は規範的に悪い

論法2. 任意のA (≠新自由主義) について,

  1. A は新自由主義の一部もしくは結果である
  2. A は規範的に悪い
  3. 1かつ2より, 新自由主義は規範的に悪い*1

ここで以下の2点について注意したい:

  • 上の定義は,「新自由主義」という語彙の実質的意味に依る事なく与えられる. つまり,新自由主義」がいかなる意味で用いられようが*2, この論法は不適切だという主張である.
  • どちらの論法においても, 1∧2→3という推論の規則それ自体に致命的なまでの欠陥はない.*3 問題があるとされるのは推論の過程ではなく, 主張1,2が共に真であるという前提である事が多い.

 

② 論法1,2はなぜ不適切か

 

問題があるとされるのは主に推論の過程ではなく, 主張1,2が共に真であるという前提であると述べた. より具体的には, 元記事の内容をまとめると, 論法1,2が不適切な理由は以下の2点に集約できる:

  • 主張1.を検証する手立てが乏しいか, あるいは存在しない
  • 主張2.を公理として採用すべきかは自明ではない

1つ目の理由は元記事の「検証が不可能/困難」の項目に該当し, 内容は元記事で解説されている通りである. 強調すべきは, ①「新自由主義」という語義自体が曖昧な事, ②定義が乱立している事, ③アドホックに定義を修正出来てしまう事は全て, この1つ目の理由の根拠であると位置付ける事が出来る, という事である. 

2つ目の理由は, 元記事の「規範的根拠が曖昧」の項目に該当する. 元記事では論法1,2が明確に区別されていないが, 論法1の場合についてはジョセフ・ヒースを引用した箇所の前後で解説されている. 論法2の場合については更にその直後で, 「主張2.を公理として採用する」事を一定程度許容しつつも, その場合に乗り越えるべき壁(=1つ目の理由)はあると指摘している. 

 

③ なぜそのような論法がまかり通って来たか

 

では, なぜそのような論法が今までまかり通って来たのだろうか?その理由として挙げられるのが, 元記事で指摘されている以下の2点に他ならない:

  • 新自由主義批判」に対してわざわざ反論する者が少ない
  • 批判者に対してレッテルを貼る事で批判を無効化しやすい

そして, それらの結果として,

  • 賛同する者だけが集まる閉じたコミュニティが作られる
  • 議論を洗練させるための環境が構築できない

という事である.

 

④ 今後どのようにあるべきか

 

では, 「新自由主義批判」はこの先どうあるべきなのか.*4

元記事の終盤では, 以下の3つの方針について述べられている:

  • 新自由主義」の定義を整理して改訂する
  • 定義の混乱は許容しつつも各自で有用と思われる定義を明示する
  • 新自由主義」という言葉の使用を止める

ここで, 仮にこのうちいずれかの方針を取った場合に, 先程述べた

  • 主張1.を検証する手立てが乏しいか, あるいは存在しない
  • 主張2.を公理として採用すべきかは自明ではない

という論法1,2の問題は解消されるのか, という点は確認すべきである. 

まず, 2つ目の方針についてはどうか. 仮に 「私は新自由主義という言葉を私の議論にとって有用なこの意味で用います」と明示したとしても, 例えばウェンディ・ブラウンの議論のように, 明示された定義を元にした議論から実証的含意を得られないのであれば, 1つ目の問題が解消される事はないだろう. 

また, 1つ目の方針を取る場合にも, 定義が改訂され明確になっただけでは, どちらの問題点も直ちには解消されない. むしろ, 定義が明確になる事で, ようやく2つの問題点を解消するスタート地点に立った状態とも言えるのであり, その先で更に乗り越えなければならない幾つかの壁があるだろう. そして, それらを将来的に乗り越える事が出来るかは自明ではない.

3つ目の方針を取る場合については, どのような事が起こると想定されるだろうか. これは是非, 論法1,2の構造がどのように変化するのかを考慮しつつ, 皆さんにも考えて頂きたいと思う.*5

*1:A=新自由主義である場合については、話がほぼtrivialになるので省略する.

*2:ハーヴェイ流の「新自由主義」かフーコー流の「新自由主義」か, 信念を指すのか状況を指すのか, どのような信念/状況なのか, あるいは議論のスコープがどこまでであるか, 過去の話なのか現在の話なのかを問わず

*3:問題はあるが, 後に述べる点と比べると些細なものである.

*4:余りに自明であるため元記事では述べられていないが, まず直ちに実行すべき事は,「新自由主義批判」の批判者に対してのレッテル貼りを止める事である.

*5:個人的には, 論法1,2の構造がどう変化するかはあまり自明ではなく, 幾つかの可能性があると思っている.