エコノミック・ノート

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【書評】田野大輔 ファシズムの教室 ーなぜ集団は暴走するのかー

 


オススメ度 ★☆


(※書籍の内容の性質上、読者自身が注意を払わないと、「書籍それ自体に対する評価」と「紹介される授業の内容に対する評価」を混同してしまう。以下のレビューでは、この2つを意図的に切り離し、主に前者について記載する。)

【書籍について】

ナチス時代のドイツ史を専門とする著者が、かつて所属先で開講していた「社会意識論」における講義経験を通して、ファシズムの本質的原因に迫る意欲作。「「社会意識論」の中心的なテーマは、「普通の人間が残虐な行動走るのはなぜか」というものである。」(p.59)

本書の目玉である「ファシズムの体験学習」について解説する第2-5章については、一読するだけで十分伝わるほどに、著者の論旨は明快である。「体験学習」の記述も、迫力があり興味深く読ませて頂いた。この箇所については広くオススメ出来る内容となっている。

一方で、現代社会との接続を試みる第6章は、率直に言って粗雑である。特に「HINOMARU」騒動(というものがあったらしい)に関する記述には、該当のミュージシャンの曲を一度も真面目に聞いた事がない私ですら呆れかけた。「政治的正しさ」への反発という文脈であれば、例えば政権演説の書き起こしやSNSで発信されている文章を広く収集し、統計的なテキスト分析に掛けて結果を考察するなど、ある程度の客観性を担保するようなやり方がありそうなものだ。

いちミュージシャンの言動を問題視する事が、ファシズムへの理解を深めた結果やるような事なのだろうか?例えばインターネット上の炎上騒動など、取り上げるべき問題がいくつもあるのではなかろうか。炎上に伴うバッシングを苦に命を絶つ者も少なくなく、まさに社会問題として扱うに相応しい話題と言える。バッシングに伴う「責任感の欠如」や「多人数による排斥」という点では一見ファシズムと似通っているが、ファシズムにとって不可欠とされる明確な「権威」が存在しないのは特徴的である。つまり炎上事件とは、ナチズム下のドイツには存在しなかったインターネットというインフラが、「ファシズムの分権化」を促した結果生まれた、新たな形のファシズムなのではないか……。

上記はあくまで適当な思い付きに基づく世迷言だが、具体的に何と関連付けて考察を深めるかは、書籍の意義や説得力に直結する。「なぜ今さらファシズムなのか」(p.4)とわざわざ著者自身がハードルを上げている以上、もう少しトピックの選定には注意を払った上で考察を深めて頂きたいと感じてしまう。

最後に、各章のコラムは内容が充実していると感じた。ナチスファシズムに関してのステレオタイプな印象を修正するような内容となっており、素人にとっては新鮮であった。ここについては、著者の研究者としての本領が発揮されていると言えるだろう。

【授業について】

まず事実認識として、著者が講義の中で執り行っていた「ファシズムの体験学習」は、あくまで実験ではなく教育である。しっかり確認したわけではないが、恐らく著者は授業を通して得られた結果を、アカデミックな実験の成果として学術誌で報告するといった事は行っていないだろう。また、第5章を読めば明らかな通り、ナチズムの完全な再現もそもそも意図しておらず、むしろそれを意図的に避けている。「実験になっていない」「歴史は再現できない」といった指摘は的外れである。

また、実習を行うに当たってかなりの配慮をしている事は十分に理解出来た。ナチス式敬礼や掛け声を使用する事は流石にどうかと思っていたが、著者なりのこだわりがあった事、本国においては教育目的であれば犯罪とはならない事、などの理由から納得した。

一方で、学生のレポートやアンケート結果をそのまま受け入れている事には疑問が残る。まず、意欲的な学生が自然と集まってしまうというセレクション・バイアスの懸念がある。加えて、講義という形式上、教員による学生の評価が介在するため、より良い成績を取る事を目的とした学生による、レポート内容の意図的な操作の可能性は避けられない。要は、敢えて教員の意図に沿った内容を書いているのではないか、という当然の懸念がある(実際どうかという話ではなく、その懸念が本質的にぬぐえないという事である)。

講義という形式から離れた場所で、かつ様々なバッググラウンドを持った人々を雑多に集めた上で、改めて「体験学習」の効果を見ると、より面白い試みとなるのではないかと思う。現実的には実現のハードルはかなり高いかもしれないが、個人的には是非とも誰かに試みて欲しい。