保険経済学をごく簡単に紹介したい。
保険経済学は影が薄いが実は非常に広大な分野で、どうにも掴みどころがない。また、「保険経済学」という授業が開講されている大学はほとんどないので、どのような分野であるのかは、学生にも研究者にもあまり知られていないと思われる。これを読んで頂ければ、何となくのイメージを持って頂けるかもしれない。
保険経済学で用いられる理論ツールは主に以下の2つである:
- (行動系を含む)意思決定理論
保険経済学の理論的主柱の一つは意思決定理論である。
ある保険会社が販売している保険にあなたが加入するということは、あなたが災害や病気に関わる金銭的リスクを一定のコスト(保険料)を払って保険会社に移転することを意味する。保険に関する意思決定、例えば保険への加入や解約などは、リスク下ないし不確実性下の意思決定問題として記述される。
保険に関する意思決定データは主に経済実験を通して盛んに生成され、理論のテスト材料としてよく用いられる。期待効用理論はほとんどの場合において実験・フィールドデータによって棄却されるため、その代わりとして確率荷重モデルやランク依存型効用理論など、行動経済学ベースの非期待効用理論が非常に多く用いられる。*1 - 契約の経済理論
保険経済学のもう一つの理論的主柱は契約の経済理論である。
いわゆる逆選択の古典的理論(Akerof (1970); Rothchild and Stiglitz (1976) など)が保険市場の理論として発展してきたことや、モラルハザードという語が元々は保険市場で用いられていた語であることを思い出せば、保険経済学にとって契約理論が大きな役割を果たすことは容易に想像できるだろう。*2
ところでここ最近、保険というトピックで五大誌から出ている論文は、軒並み構造推定を用いている。*3 とくに近年では介護保険市場(long-term care insurance market)に関する論文が立て続けに出されており(Braun et al. (2019); Ko (2022); Mommaerts (2025); Aizawa and Ko (2025))研究が大きく進歩している。*4 こうした論文で推定される理論モデルは、契約理論ベースの保険市場モデルとなっていることが多い。
これらの他にも、保険会社は金融機関の一種であり、保険もまた金融商品の一種であることに注目すれば、保険経済学はファイナンスや資産価格理論の応用分野となる。保険会社の巨大な機関投資家としての側面に注目すれば、例えば金融政策の波及への寄与といった保険市場のマクロ経済への影響力を無視することはできない。古典的なリスク・シェアリングの理論については、Arrow-Debreuの(リスクのある)市場均衡理論が議論のベンチマークとなっている。*5
保険会社の競争や市場構造に注目すれば、保険経済学は産業組織論の応用分野となる。保険は複雑な商品なので、消費者が自らサーチ行動を取るよりもむしろ、マッチメイカー(保険代理店)の仲介によって保険が販売されることが多い。*6 保険会社が代理店に支払うコミッションを介して行われる販売競争や、代理店の利益追求に伴うrecommendation bias、それらの厚生への影響などは、保険経済学における重要なトピックである。
医療/介護といった公共性の高いサービスと深く関連していることから、保険経済学を公共経済学・医療経済学などの隣接分野として位置付けることもできる。公的保険と私的保険の代替性について、医療保険・介護保険の双方において研究が蓄積されている。また、失業保険が労働市場において欠かせないこと、保険市場の発達が経済成長に欠かせないことを考慮すれば、保険というトピックへの労働経済学・開発経済学からの関心があることも分かるだろう。とくに高野(2025)による教科書では、「リスク」と題して保険とリスク分散の話題にまるまる一章が割かれている。
未だ解決の兆しが見えない気候変動リスクへの対応に目を向ければ、それは環境経済学にとって大きな課題であるだけではなく、そのリスクを預かるべき保険市場にとっても喫緊の課題である。はたまた、保険会社はしばしば海外の再保険会社*7 へリスクを移転することで、国際的な資本取引も行っている。最も歴史の古い損害保険とされる海上保険は、現代まで国際貿易にとって不可欠なものであり続けてきた。国際金融論・貿易論の観点からも保険市場が果たす役割を分析する余地がある。
保険がいかに経済社会の隅々に紛れ込んでいるか、そのスコープの大きさをご理解いただけただろうか。やや大袈裟に言えば、保険市場はまさしく経済学の総合格闘場であると私は勝手に思っている。このように広大な分野全てを一人で網羅することは大変難しいので、各々が得意分野を持っており、その範囲で研究しているというケースが殆どである。
おまけ
- 保険経済学の一般向け書籍(!)の訳本が最近刊行された。著者のLiran EinavとAmy Finkelsteinは、多くの共著論文で保険経済学を牽引してきた分野の第一人者である。*8 逆選択というトピックに絞られているが(これは著者たちの研究歴に基づいている)広くオススメ出来る一冊である。
- 2025年にはハンドブック第3版 Vol1-2が刊行されている。広大な分野の外観に良いと思われる。
*1:その他、後悔回避(regret aversion)や曖昧さ回避(ambiguity aversion)のモデルなども用いられる頻度が高い。
*2:関連して、ゲーム理論やメカニズムデザインのテクニックが援用される場合もある。
*4:介護保険市場の分析は、保険経済学の代表的トピックの一つである。
*5:「Arrow-Debreu証券は保険のようなもの」という説明を受けたことはなかっただろうか。
*6:多くの人は「ほけんの窓口」を街中で見かけたことがあると思う。
*7:保険会社の保険会社のこと。保険会社は顧客とは別に再保険会社と保険契約を結ぶことで、リスクの一部を再保険会社へ移転することができる。
*8:もう一人の著者は政治経済学・行動経済学で業績のある研究者である。(なお恥ずかしながら、私は存じ上げていなかった。)









