エコノミック・ノート

経済学を正確に分かりやすく。あと数学、読書とか。

帰納的ゲーム理論(Inductive Game Theory)を学ぶ

この記事では、ブログ主が作成した帰納ゲーム理論(Inductive Game Theory)についてのノートを公開しています。*1

ご質問・コメント等、大歓迎です。

 

現在はKaneko and Matsui (1999) の内容を途中までまとめています。今後はこちらとKaneko and Kline (2008) は少なくともまとめられればと思っています(後者は理解するのに数年かかりそうですが)。

 

Section 1.4 以降は工事中となっていますのでご注意ください。順次更新していく予定です。

 

なお、言語は英語となっています。日本語化は今のところ検討しておりませんが、ご要望があれば……。

 

学ぶ際に参考となるもの:

 

個人的な疑問リスト:

  • ゲームのプレイヤーはゲームの構造を事前には知らないが、メタ的な分析者は正しいゲームの構造を知っているという前提に立っているのだろうか?
  • 応用研究の場合、現実を抽象した「正しいゲーム」もまた分析者の主観的世界なのではないか?
  • 「良くゲームの構造を理解できたと認識しているプレイヤーほど、deviationをしなくなる」という行動習性を入れる事はできないか?
  • 陰謀論のような「極端な世界観」を持った主体の成立を説明できないか?

 

 

*1:それなりに自信作です。個人的には大分読みやすい作りになっているんじゃないかと思います。

*2:帰納ゲーム理論創始者の一人。

【書評】田野大輔 ファシズムの教室 ーなぜ集団は暴走するのかー

 


オススメ度 ★☆


(※書籍の内容の性質上、読者自身が注意を払わないと、「書籍それ自体に対する評価」と「紹介される授業の内容に対する評価」を混同してしまう。以下のレビューでは、この2つを意図的に切り離し、主に前者について記載する。)

【書籍について】

ナチス時代のドイツ史を専門とする著者が、かつて所属先で開講していた「社会意識論」における講義経験を通して、ファシズムの本質的原因に迫る意欲作。「「社会意識論」の中心的なテーマは、「普通の人間が残虐な行動走るのはなぜか」というものである。」(p.59)

本書の目玉である「ファシズムの体験学習」について解説する第2-5章については、一読するだけで十分伝わるほどに、著者の論旨は明快である。「体験学習」の記述も、迫力があり興味深く読ませて頂いた。この箇所については広くオススメ出来る内容となっている。

一方で、現代社会との接続を試みる第6章は、率直に言って粗雑である。特に「HINOMARU」騒動(というものがあったらしい)に関する記述には、該当のミュージシャンの曲を一度も真面目に聞いた事がない私ですら呆れかけた。「政治的正しさ」への反発という文脈であれば、例えば政権演説の書き起こしやSNSで発信されている文章を広く収集し、統計的なテキスト分析に掛けて結果を考察するなど、ある程度の客観性を担保するようなやり方がありそうなものだ。

いちミュージシャンの言動を問題視する事が、ファシズムへの理解を深めた結果やるような事なのだろうか?例えばインターネット上の炎上騒動など、取り上げるべき問題がいくつもあるのではなかろうか。炎上に伴うバッシングを苦に命を絶つ者も少なくなく、まさに社会問題として扱うに相応しい話題と言える。バッシングに伴う「責任感の欠如」や「多人数による排斥」という点では一見ファシズムと似通っているが、ファシズムにとって不可欠とされる明確な「権威」が存在しないのは特徴的である。つまり炎上事件とは、ナチズム下のドイツには存在しなかったインターネットというインフラが、「ファシズムの分権化」を促した結果生まれた、新たな形のファシズムなのではないか……。

上記はあくまで適当な思い付きに基づく世迷言だが、具体的に何と関連付けて考察を深めるかは、書籍の意義や説得力に直結する。「なぜ今さらファシズムなのか」(p.4)とわざわざ著者自身がハードルを上げている以上、もう少しトピックの選定には注意を払った上で考察を深めて頂きたいと感じてしまう。

最後に、各章のコラムは内容が充実していると感じた。ナチスファシズムに関してのステレオタイプな印象を修正するような内容となっており、素人にとっては新鮮であった。ここについては、著者の研究者としての本領が発揮されていると言えるだろう。

【授業について】

まず事実認識として、著者が講義の中で執り行っていた「ファシズムの体験学習」は、あくまで実験ではなく教育である。しっかり確認したわけではないが、恐らく著者は授業を通して得られた結果を、アカデミックな実験の成果として学術誌で報告するといった事は行っていないだろう。また、第5章を読めば明らかな通り、ナチズムの完全な再現もそもそも意図しておらず、むしろそれを意図的に避けている。「実験になっていない」「歴史は再現できない」といった指摘は的外れである。

また、実習を行うに当たってかなりの配慮をしている事は十分に理解出来た。ナチス式敬礼や掛け声を使用する事は流石にどうかと思っていたが、著者なりのこだわりがあった事、本国においては教育目的であれば犯罪とはならない事、などの理由から納得した。

一方で、学生のレポートやアンケート結果をそのまま受け入れている事には疑問が残る。まず、意欲的な学生が自然と集まってしまうというセレクション・バイアスの懸念がある。加えて、講義という形式上、教員による学生の評価が介在するため、より良い成績を取る事を目的とした学生による、レポート内容の意図的な操作の可能性は避けられない。要は、敢えて教員の意図に沿った内容を書いているのではないか、という当然の懸念がある(実際どうかという話ではなく、その懸念が本質的にぬぐえないという事である)。

講義という形式から離れた場所で、かつ様々なバッググラウンドを持った人々を雑多に集めた上で、改めて「体験学習」の効果を見ると、より面白い試みとなるのではないかと思う。現実的には実現のハードルはかなり高いかもしれないが、個人的には是非とも誰かに試みて欲しい。

【書評】清水和巳 経済学と合理性 ー経済学の真の標準化に向けてー

 

 

オススメ度 ★★★★

「経済学における合理性・非合理性」という、誤解と曲解が蔓延している厄介なテーマについて、懇切丁寧に解説している良書である。「本書の目的は, …標準的経済学の現在と将来を「合理性」をキーワードに説明, 展望していくことにある」(p.3)

200頁に満たない小さな本であるが、ホモ・エコノミクスの仮定が云々とSNSやブログで講釈を垂れる前に、最低限理解しておいた方が良いトピックが詰め込まれている。

数式の使用を控えめにしながらも解説の正確さを損なわないように工夫されており、2022年7月現在、同テーマについては邦書の中でベストな入門書と言えるのではないかと思う。

経済学では通常、合理性という概念は、選好関係上のある公理のセットとして定義される。頻繁に挙げられるのが、完備性・推移性という公理を満たす選好関係を「合理的」選好関係と定義する、というものである。これは最もprimitiveな定義であるが、本書ではこれに留まらず、リスク選好や時間選好を扱う場合の(=公理のセットを拡張した場合の)合理性といった中級のトピックまでがカバーされている。

これにより、第3章で解説される「非合理性」を考慮に入れる理論をクリアに理解出来る作りになっている。経済学において「非合理的である」とは、大体の場合において「合理性を定義する公理のセットのうちどれか1つ以上が満たされない」という意味に他ならない。本書では、「どの公理がどのように満たされないのか」という点を詳細に解説する事で、どのような意味で「非合理的」と言えるのかがクリアになっている。

またゲーム理論について、ゲームの形と各プレイヤーの合理性が共有知識(common knowledge)である事それ自体を合理性の一形態として扱っている点は注目に値する。というのも、共有知識という概念は、「知識の公理(のセット)」を満たす知識関数(knowledge function)から定義されるため、選好関係上の公理から定義される伝統的な合理性概念とは異なる性質のものだからである。凡庸な文献では無視してしまうような話題であるが、本書では利他的選好、質的応答均衡(QRE)、更には帰納ゲーム理論といった先端的理論の解説にまで繋げている。

マクロ経済学のトピックを扱っているのも特徴的である。凡庸な文献では、「現代のマクロ経済学ミクロ経済学のただの応用」と言わんばかりにマクロ固有のトピックを無視してしまう。本書では、誤解されがちな「代表的個人」の仮定と「資産市場の完備性」の仮定との関係を明確にしつつ、HANKモデルや合理的不注意といった最新のマクロ理論の簡単な解説に繋げている。

以上のように、「経済学における合理性・非合理性」に関連する幅広いトピックについて、ハンディに触れる事が出来る優れた入門書であり、このテーマに興味のある全ての人々にオススメ出来る良書である。

ゲーム理論をビジネスに活かすために学ぶべきこと

経験上、修士課程の専攻はゲーム理論でした、と話すと怪訝な顔をされる事が多い。

 

ゲーム理論をしっかり学んだ人々は、程度の差はあれど、ビジネス社会にとってゲーム理論の知見は有用だと考えていると思う。しかし、我々の想像以上に、ビジネス社会ではそうは考えられていないのが現実である。

 

ゲーム理論の内容が、依然としてほとんど社会において認知されていない」というのは理由の一つだろう。しかし、私はそれ以上に、既存のゲーム理論の教科書の内容に原因があると思っている。

 

一般的なゲーム理論の教科書は、囚人のジレンマゲームの説明から始まる。「均衡」というツールの使い方を説明するために、構造が簡単な「ゲーム」から始める訳である。「各プレイヤーの合理的行動が、社会にとって最適でない結果を導く」というストーリーは、読者の興味や学びのモチベーションの喚起にも使いやすい。

 

ここで、こうした標準的な教科書の内容を、その構造に注目して整理すると、以下の通りとなる。

 

① 仮想的な状況を考えて、簡単な「ゲーム」を作る。
②「均衡」というツールの使い方とその意味を説明する。
③ 実際にツールを使ってみて、何が得られるかを説明する。
④ 得られた結果を吟味し、ツールの有用性を納得させる。

 

ここで重きを置かれがちなのは、主に②, ③である。ゲーム理論家が教科書を書く際に重視するのは、「均衡」という強力なツールを正しく理解して、与えられた「ゲーム」の結果を自力で導出・分析できるようになる事である。

 

私は、この構造には問題があると思っている。

 

ゲーム理論の教科書的な分析は、「ゲームのルール」を簡単に設定して、それを与えられたものとして進められる(構造の①に該当する)。


しかし、ビジネス実務では必ずしもそうではない、というか多くの場合、皆が納得できる利得関数すら設定する事は難しい。「ゲームのルールに不確実性のあるベイジアンゲームを使えばいいじゃない」という声が聞こえなくもない。しかし、その場合に所与とされるタイプ空間上の事前分布についても、同じ事が言えるだろう。それらの適切な決め方を理解しないと、設定はアドホックにならざるを得ず、対外的に分析の信頼性を持たせる事は難しくなる。

 

現実の社会現象を説明しようとするタイプの応用研究では、分析結果のもたらす直観が現実と整合的であるか、もしくは何かしらの非自明な示唆があればある程度評価される傾向がある。しかし、ビジネス実務では、分析の前提には(例えば経営者・監査人などから)厳しいツッコミが入るし、アドホックな仮定*1は多くの場合において忌避される。

 

まず、「ゲームのルール」の適切な決め方を理解し、それを皆が納得できる形で説明する方法を考える事が、ゲーム理論をビジネスに活かすための第一歩だと思う。

 

一方で、ここはまさに長年の訓練と経験をもって初めて身に付けられる「秘伝の職人芸」とも言える暗黙知である。この暗黙知形式知化していく事で、ゲーム理論のビジネス活用への理解は、飛躍的に高まるのではないだろうか。

 

最後に、ここまでを踏まえて、改めてビジネスパーソンにとって本当に必要なゲーム理論の教科書の構造は、以下のようになると思う。*2

 

①' ある現実的問題を取り上げ、その具体的状況を詳細に解説する。
②' その問題をどのように抽象して「ゲーム化」するか、その途中の意思決定を全て含めて詳細に記述する。
③' 計算過程はappendixに回し、その直感と結果のみを本文に記述する。
④' 得られた結果を吟味し、「ゲーム化」の妥当性を検証する。

 

ここで重きを置かれるのは、従来の教科書では軽視されがちだった現実的問題の「ゲーム化」の方法である(①', ②'に該当する)。重視されるのは、「ゲーム化」という強力な手法を正しく理解して、現実的問題を自力で抽象化し「ゲーム」に落とし込めるようになる事である。

 

題して『ケースで学ぶゲーム理論』だ。出版社やゲーム理論研究者の方、ぜひ出版・執筆をご検討ください。

*1:ここでアドホックな仮定とは、例えば「各プレイヤーの利得関数はsymmetricで、x(s)を各戦略の組sから得られる財の配分量とすると、u(s)=ln( x(s) )で与えられる」というレベルのものを指す。ここで「簡単だからsymmetricとする」「皆使っているからln(•)を使う」という説明では説明相手に一蹴されてしまうだろう。

*2:書いてみて気が付いたが、これは応用ゲーム理論の典型的な論文の構成とほとんど同じである。

【書評】千葉雅也 現代思想入門 part2

 

valeria-aikat.hatenablog.com


書評にpart2もクソもあるかとは思うのだが、上の記事を書いた後、少し気になる事があったので補足する。

このブログで書評を載せた2日後に著者のTwitterで以下のようなツイートがあった。

 

このブログで書いた書評は、実は全く同じものをAmazonレビューにも載せている。この著者がTwitter上では常にエゴサーチをしているという事もあって、これを見た私は直感的に、これらはもしかすると私のレビューを見た感想ではないかと感じた(自意識過剰だったら本当にごめんなさい)

もしこれらが私のレビューへの感想であれば、はなはだ残念というか、ガッカリに思う。主旨を読みとってくれていないからである。

↑のレビューを読んで頂ければお分かりいただけると思うが、私のレビューの主旨はまとめると以下の通りだ。

この本は「ここで紹介されている思想から得られる具体的な帰結は何か?」という事を十分に示せていない。本来、ポスト構造主義の思想に従うのであれば、抽象的な思想(=直接・パロール的なもの)と同じかそれ以上に、具体的な細部(=間接・エクリチュール的なもの)や、その相互の繫がりをつぶさに探究すべきではないのか。一般向けの仕事としては、その内容を理解する事の効用まで含めて具体的に提示し、説得力を持たせて欲しいと感じる。これは、抽象的な思想を実際にどの範囲で使用すべきかという倫理の問題でもある。

 

私としては、「抽象的な構造をしっかり示」すのは"当たり前"で、そのうえ上で具体的な細部やそれらの繫がりを深く吟味すべきではないのか、という事を書いたつもりだった(同じかそれ以上に、という部分にそのニュアンスを含ませた)。

したがって、ただ「具体例をたくさん挙げ」てほしいと言っているわけではない。極端な話、一つの具体例でもいいから抽象的な思想との繋がりを深く吟味してほしい、というのが本来の主旨である。そうした過程を経て初めて見えてくる抽象的構造の本質もあるんじゃないか、と思うからだ(実際、そうした具体例は数学では良くある。そうした具体例を見つけるにはセンスが問われるのだが)。

加えて、そうした姿勢が著者の紹介する「二項対立を脱構築する」という、ポスト構造主義の思想ともマッチするではないか、という所まで一つ踏み込んで書いたつもりだ。ところが著者はツイートでは、抽象-具体の二項対立において、抽象をほぼ一方的に評価するかのような物言いをしている。著者のフォロワー達も概ねこれに賛同している事に驚きである。

最後に、「抽象的な思想を実際にどの範囲で使用すべきかという倫理の問題」についてだが、これは私個人の社会科学的関心からの問題意識だ。率直に言って、理論を具体的な問題に応用するのは、決して簡単ではないし、自由にやっていいものでもない。実際、経済学の理論を下手に使って、実際の社会問題についておかしな結論を出す人は私は山ほど見てきた。ただ「具体例をたくさん挙げ」るという雑な仕事ではなくて、抽象と具体を結びつけるという繊細な仕事を"プロとして"見せて欲しかったのだが、この本にはそれが無かった、という事を伝えたかったのである。

 

【書評】千葉雅也 現代思想入門

 


オススメ度 ★★★★☆


書店やTwitterでやたら顔写真と名前を見かける著者の新著。フランスのポスト構造主義(≒ポストモダン)思想を著者自身の解釈を交えつつ分かりやすくまとめている。

入門のための入門 (p.17) とされており、想定されている読者は全くの素人である。例えば、「ガタリやらデリダやらラカンやら、名前だけは『魔法陣グルグル』に出てくるから知っている、『知の欺瞞』でソーカルにボコられた数学音痴たちでしょ?」という印象を持っている(私のような)人間にもオススメ出来る。というのも、ソーカルが批判したレトリックは基本的には廃され、あくまで思想の骨格を解説するように書かれているからである。

教育的な姿勢も感じられる。それは、ただ次に読むべき入門書を紹介しているという表面上の事についてではなく、プロの仕方を素人に開示するという著者の姿勢についてである。第六章「現代思想のつくり方」および、付録「現代思想の読み方」ではそれぞれフランス現代思想の研究作法を俯瞰的な視点でまとめている。こうした記述は教科書的というよりも講義的である。数学の講義で、教員がその場で考えながら証明を板書する感覚に似ている。

素人ながら興味深く読みはしたのだが、一つ腑に落ちない事がある。これらの思想から得られる帰結は何か?という事だ。著者は、現代思想を学ぶ効用について、「現代思想を学ぶと、複雑なことを単純化しないで考えられるようになります。単純化できない現実の難しさを、以前より「高い解像度」でとらえられるようになるでしょう」(p.12) と書いている。それは例えば具体的にはどのような現実の難しさだろうか?

ドゥルーズの生成変化や古代的ポストモダンという考え方から着想されたらしいタスク処理のライフハックは面白く実践的ではあるが、それによって「単純化できない現実の難しさを、以前より「高い解像度」でとらえられ」ているとは思えない。同性愛を基礎づける事が出来るとする記述もいくつかあり、それらは説得的であるが、応用先がそれ一つだけという事はないだろうと思う。

フーコーの生政治に関する説明では、新型コロナ問題を例に「ワクチン政策は生政治であ」ると批判出来るため、「ワクチン反対派…にも一理ある」とされている (p.99) 。しかし、医療・疫学研究においては一言に反対派といっても、忌避(hesitancy)・拒否(refusal)・親による拒否(parental refusal)等々と様々に分類されており、更にそうした態度を取る理由にも様々な差異がある事が報告されている。ポスト構造主義者が言う通り、「物事は複雑」(p.198) である。具体的な細部をおざなりにする結果、雑な議論になってしまっていないだろうか。

極めつけに著者は、序盤で「現代では「きちんとする」方向へといろんな改革が進んでい」るとしつつ、「具体的にどういう問題があるかと例を挙げると、その例だけに注目して拒絶され、…話を聞いてもらえないかもしれない」と具体的な例を挙げる事自体を避けてしまっている (pp.12-13)。しかし、ポスト構造主義の思想に従うのであれば、抽象的な思想(=直接・パロール的なもの)と同じかそれ以上に、具体的な細部(=間接・エクリチュール的なもの)や、その相互の繫がりをつぶさに探究すべきではないのだろうか。

アカデミックな仕事としては、他人の思想を上手く纏めて紹介したり、それらの新たな解釈を提示したり、というので十分に評価すべきものだろうが、一般向けの仕事としては、その内容を理解する事の効用まで含めて具体的に提示し、説得力を持たせて欲しいと感じる。もしそれが出来ないのであれば、それもまたあり方として肯定する。しかしその場合は、(フーコーのものを除く)これらの思想の多くが社会的問題について、間接的なレンズにはなり得ても、直接的な示唆を与えるためのツールにはならないと素直に認めるべきであろうと思う。強調するが、それが悪いという話ではない。どの範囲で使用すべきかという倫理の問題である。

【書評】重田園江 ホモ・エコノミクス ー「利己的人間」の思想史ー

 

 

オススメ度 ★★★☆☆

 

政治思想史とフーコーがご専門の著者による「ホモ・エコノミクス」という人間観の歴史を辿った著作。「まったくもって自明の存在とは言えない自己利益の主体は、どこから出てきたものなのか。そしてどんな役割を、この社会で果たしてきたのか。これが本書のテーマとなる。」(p.14)

限界革命」を担ったとされる著名な経済学者メンガージェヴォンズワルラス三者による原著とその思想を追う第ニ部は非常に興味深い。この時代の経済学について、時代背景や思想に至るまでここまで丁寧に解説している著作はそう多くはないだろうと思う(自分が知らないだけかもしれないが)。

第三部でゲイリー・ベッカーを取り上げているのも面白い。彼の研究は、結果的に「経済」を経済学が対象とするものの極一部に過ぎないものにし、「社会理論」としての経済学という現在の立ち位置を確立させる一歩となったが、その考え方はかなり急進的で経済学史の中でも特異に映るものだ。フーコーがベッカーについて言及していたというのは知らなかったが、そのお陰でこの著者が彼の特異な試みと思想についてまとめる事となったのであれば、有難い事だ。

このように細部は興味深い一方で、大枠の主張には疑問が残る。著者は「ホモ・エコノミクスが…一つの社会規範として…多くの人に強いているのではないか」(p293) と主張する。しかし、著者がどのような社会でそうなっていると考えているかはこの本からは見えてこない。全世界か、経済学の起源であるヨーロッパか、経済学の拠点となったアメリカなのか、それとも冒頭で就職活動の話をしているからには日本のさらに首都圏なのか。議論のスコープが不明瞭である。

また、この主張を(どこかの社会において)仮に真として受け止めたとしても、その原因を何の検討も経ずに経済学に求めたのは安易だったのではないだろうか。というのも、

①まず率直に言って、本書で紹介されているものを含む経済学の考え方が、人々の精神性に何らかの影響を与える程、広く認知され浸透しているとはとても思えない。経済学の基礎となる学部レベルのミクロ経済学ですら、正確に理解している人々は多くて社会全体の数%ではないだろうか。

②事実として、経済学における合理的経済人は、著者の言うような「行動の…経済的無駄を省き、できるだけ儲かるように…意思決定する主体(p.17)」では必ずしもない。ある種の利他性や不平等への嫌悪をもつ主体など、「できるだけ儲かるように意思決定する主体」とは言えないものも、合理的経済人の枠組みで記述が可能だからだ。

③そもそも経済学にとってホモ・エコノミクスは、言ってしまえばただの「作業仮説」に過ぎない。そこに善・悪といった価値判断はない。あくまで議論を単純化するための「仮説(=仮にそうとするもの)」なのであって、それは経済学にとって「規範(=そうあるべきもの)」ではあり得ない。「単なる仮説がどうして規範性を持つに至ったのか」という著者の主張の裏付けには不可欠な問いに対しては、p133で僅かに語られるのみで、説得的な分析はなされていない。

この結果なのだろうか、代わりにこの著書には経済学について読者に誤解を与えるような記述が多々あるように思う。著者は、経済学についてはあくまで「富の道を追求する人間、貪欲を肯定する世界を…裏側からこっそり擁護し正当化する、ある「科学」」(p.100) としか書いていない。しかし、この本を読んだ多く読者は恐らく、著者の巧みなレトリックにより、「経済学がホモ・エコノミクスを規範として社会に広めてきたんだ!」というような"印象"を持ってしまうのではないだろうか。

また、本著の外部不経済(p193)、アローの定理(pp246-247、pp271-272)に関する記述などはかなり怪しい。しかし、経済学に馴染みのない読者はこの違和感に気が付きにくいだろう。現代の経済学が数学を用いるのは、科学性を装うためというよりも、こうした不明瞭さを防止するためという理由の方が大きい。数学という簡潔さ・明快さに優れた世界共通の言語は、不明確な議論や誤りの発見・防止に役立つと考えられているからだ。自然言語による分析の限界を、著者は図らずも示してしまっている。

最後に、これは細かい事だが、この本におけるグラフの引用目的については疑問を持たざるを得ない。著者はいくつかの箇所でグラフを引用している (ニュートン『プリンキピア』(p176); ベッカー『差別の経済学』(p212); ブキャナン&タロック『公共選択の理論』(p261)) 。図・グラフとは本来、何かしらを理解させるために付されるものであるはずだが、本著においてはグラフを読み解くための必要十分な解説が付されておらず、ただ眺めるだけの"飾り"となってしまっていないだろうか。著者は内容を理解した上でこれらのグラフを載せていると信じたいが、なぜ読者の理解を促すための解説を付さなかったのか疑問に感じざるを得ない。


【以下余談】
本書のアローの定理についての記述はかなり怪しいので、ここで指摘しておく。まず、教科書的な定理のstatementは以下の通りである。


『2人以上の個人と3つ以上の選択肢(社会状態)があるとき、弱パレート効率性 (WP)、定義域の非限定性 (UD)、無関係な選択肢からの独立性 (IIA) を同時に満たす選好集計ルールは、独裁性 (D) を満たす』*1

WP、UD、IIAの詳細は省くが、これらはアローが集計ルールとして望ましいと考えられ得るとした公理で、(数学が分かる人ならば)誰にでも意図が正確に伝わるように、明示的・形式的に定義された概念である。とりあえずなんだか良く分からない独自の概念、というものではない。

さて、上のstatementから分かる事は、アローの定理が「社会的なルールはどのように定められるべきかの条件」(p246) や「個人の選好のセットと両立できる社会のルールが一つに定まらないケースがあること」(pp246-247) を示したとするのはどちらかというと不自然であり、「一般に望ましいと考えられ得る条件を全て満たす集計ルールは、独裁制の一つにしか定まらないこと」を示したとするのが自然だという事である。

したがって、「個人の選択のセットから最適な社会的資源配分を一つに定められるという前提をとっていた厚生経済学に、大きな打撃を与えた」(p247) という記述も少し怪しい。選好と選択は異なる概念なので、「個人の選択のセット」という言葉遣いも微妙である。

次に、著者は「そもそもパレート最適が最善の政治的決定なのかどうかはとても怪しい」(p272) とする。しかし、アローの置いた公理WPは、実のところ非常に弱い要請である。これは、以下の定義を見るとよりはっきりする。

『WP: 全ての個人がxをyより望ましいとするならば、集計結果もxをyより望ましいとする』


ここでx, yは任意の社会状態(例えば資源配分)である。WPを否定するという事は、例えるならば、「ある政治家A, Bについて、国民全員がAの方がBよりも首相に相応しいと投票した」としても、「選挙の結果としては政治家Bの方が首相に相応しいとする」という集計ルールを許容するという事になるのだが、そのような選挙は果たして許されるのだろうか。

WPは、その内容から「全会一致性」とも呼ばれる。民主的な集計ルールを考える上で、最善どころか必要最低限とすら私には思えるのだが、著者はどのような事を想定して「とても怪しい」と感じたのか、気にならずにはおれない。

*1:ここで選好集計ルールとは、可能な社会状態全体の集合\(X \)上の、個人\( i (1 \le i \le n) \)の持つ選好関係の集合\(D_i\)の直積\(D=\times_{i=1}^n D_i \)の部分集合から、同じく社会が持つ\(X \)上の選好関係の集合\(R\) への関数\( f \)である。つまり、一つの選好関係のセットが与えられた時に、それらを「何らかの形」で集計して、社会全体としての選好関係を出力するものである。WP、UD、IIAといった諸条件は、「何らかの形」として望ましいと考えられる集計ルールの条件である。

理論に再現性が必要なのはどういう時か?

昨今、色々なところで「再現性の危機」が叫ばれている。再現性の危機とは、要はある実験の結果が、後から別の人が実験してもあまり再現されないという困った問題である。

note.com
以下のレポートによると、「再現性の危機」は心理学・行動経済学のみならず、科学界全体の問題でもある。

www.nature.com

 

しかし、私は「再現性の危機」について一定程度の疑義を持っている。
それは、再現性は科学にとって「常に」必要なものであるのかという事である。


少し待ってほしい。再現性なんて別になくても良いよという無責任な話をしたいのではない。私がしたいのは、再現性が必要な時って実は限られてるんじゃないのという話である。

 

ダニング・クルーガー効果をご存知だろうか?もしご存じなければ詳しくはWikiを読んで頂きたいのだが、これは能力の低い人は自分の能力を過大評価するという心理学の仮説で、長きに渡りまことしやかに囁かれてきたが、実は再現性が低い事が最近の研究で分かってきたという曰くつきのシロモノである。

 

さてここで質問だが、この仮説を初めて聞いた時、貴方はどう感じただろうか?きっと多くの方はこう感じたのではないだろうか、「そういう人、確かにいる」と。

 

この直感は、実際の再現性の低さとは一見相反するもののように見える。が、果たして本当にそうだろうか。

 

貴方(もしくは誰か)が「そういう人、確かにいる」と思った時、貴方(誰か)の頭の中にはある特定の人物が浮かんでいる可能性が高い。

 

一方で、「再現性がない」というのは、「多くの人間について平均的に仮説が当てはまるかどうかを見ると、そうでもない」といった意味である。

 

つまり前者は、ある「特定の個人」の特徴を説明するための仮説の援用であるが、後者は、ある程度「普遍的な人間」の特徴を説明できる仮説かどうかのテストの失敗を意味する。この2つは対象のスコープが違うのである。したがって、この2つは両立し得るし、前者は説明として決して間違っているとは言えない。*1

 

賢明な方であれば、私の言いたい事は既に伝わったかもしれない。つまりこういう事である:

 

ある仮説によって特定の事象を説明する時、再現性は必ずしも必要ではない。

 

では、再現性が必要な時とは、どんな時だろうか。

 

この問いへの私の答えはシンプルだ。つまり、「ある目的のために、仮説を現実で応用しようとする時」に他ならない。

 

ここで、ある目的とは、売上アップやコストカットといった何かしらの達成目標を指す。

 

行動経済学は「現実に即した理論」で「現実で応用できる」事を広く宣伝してきた。行動経済学マーケティング!みたいなものはその一例である。が、昨今になってその再現性の低さが問題視されるようになった。

 

理論が「現実で応用できる」ためには、理論が現実で再現されなければならない。つまり、理論がある程度「普遍的な人間」の特徴を説明できなければならない。ここに再現性の必要性が生じる。

 

「現象を上手く説明する」事と「普遍的な理論を構築する」事は、必ずしも一致しないのではないか。

*1:じゃあ「どんな時に間違っていると言えるのか」という反証可能性の問題を考える方がいるかもしれない。しかし、この場合の反証は簡単で、「その人が実際には身の丈を弁えている」反例を示せば良い。そもそも、理論の再現性がない事は、その理論を用いた説明の反証にはならない事に注意すべきである。

【行動経済学】M均衡: ゲーム理論のブレイクスルーとなるか?【ゲーム理論】

非常に興味深い論文を見つけたので, ここでシェアします.

www.aeaweb.org


以下はアブストラクト(ハイライトは私による).

We introduce a set-valued solution concept, M equilibrium, to capture empirical regularities from over half a century of game theory experiments. We show M equilibrium serves as a meta theory for various models that hitherto were considered unrelated. M equilibrium is empirically robust and, despite being set-valued, falsifiable. Results from a series of experiments that compare M equilibrium to leading behavioral game theory models demonstrate its virtues in predicting observed choices and stated beliefs. Data from experimental games with a unique pure-strategy Nash equilibrium and multiple M equilibria exhibit coordination problems that could not be anticipated through the lens of existing models.

要は「実証との乖離という半世紀にわたるゲーム理論の問題を解決する理論を構築しました!!」と書いてある. すごそう.



これだけでは分からないので, もう少し中身を見てみる.



まず, イントロで指摘されている事は以下の通り.

1. ナッシュ均衡による行動の予測はぶっちゃけダメ.
2. 人々は自分が報告した信念(belief)をもとづいて最適応答をしてない.
3. しかも, ナッシュの暗黙の仮定と裏腹に, 人々の持つ信念は大体間違ってる.
4. 上の3つは多くの実験研究で分かったよ.



著者の少なくともどちらかは実験経済学者なのだと察するが, ボロクソである.

 

 

ただ, この指摘は多くの経済学者もある程度納得している事だと思う. こうした欠点がある事の承知の上で, 我々は出来る事をやっているんだというのが多くの経済学者に共通するスタンスだろう.


この論文の凄い所は, 多くの経済学者が納得の上で妥協してきた上のような問題を, 何とかして解決に向けてアプローチしようとした点だ. いつかはやらなければと思う人間はたくさんいても, それを実際にやってのけてしまう人間は1%にも満たないだろう.


さて, じゃあこの論文は何をしたのか?まとめると, 以下のようにナッシュ均衡の前提を弱めた均衡概念を提案した.

(i) Monotonicity: Choice frequencies are positively but imperfectly related to expected payoffs based on beliefs, i.e., players “better respond” but do not necessarily best respond.

(ii) Consequential Unbiasedness: Beliefs may be biased but they induce the same ordering of expected payoffs as the observed choices do.

(iii) Set Valued: Belief and choice predictions are set valued with predicted choices being a subset of predicted beliefs.

 

(i)のMonotonicity(単調性)は, ナッシュ均衡最適応答(best responce)の前提を弱めたものだ. "Best"である代わりにある意味で"少なくともbetter"である事を要請する.

(ii)のConsequential Unbiasedness(帰結的不偏性?)は, ナッシュ均衡の正しい信念(correct belief)の前提を弱め, 代わりに一定程度のバイアスを許すものだ.

(iii)のSet Valuedはそのままで, 点ではなく集合で均衡を定義するという事だ. ナッシュ均衡は正確にはナッシュ均衡点(Nash equilibrium point)といい, 戦略空間上の点として定義される. M均衡では, (i)(ii)で弱い前提を受け入れた結果, 点として定義するのでは不十分で, 集合として定義する必要が生まれるとの事だ.*1



最後に, M均衡のフォーマルな定義を書いておこう.


……と思ったけど思ったよりゴチャゴチャしててTexで打つのが面倒なので, そのうちに改めて更新します.






参考文献

Goeree, Jacob K., and Philippos Louis. 2021. "M Equilibrium: A Theory of Beliefs and Choices in Games." American Economic Review111 (12): 4002-45.


*1:ゲーム理論創始者の一人とされるノイマンは, ナッシュ均衡をあまり良く思わなかったという言い伝えがある. その理由の一つが, ノイマンが人類最初に定義した均衡概念である安定集合と違って, ナッシュ均衡が点で定義されていたからだと言われている.

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