エコノミック・ノート

経済学を正確に分かりやすく。あと数学、読書とか。

【書評】重田園江 ホモ・エコノミクス ー「利己的人間」の思想史ー

 

 

オススメ度 ★★★☆☆

 

政治思想史とフーコーがご専門の著者による「ホモ・エコノミクス」という人間観の歴史を辿った著作。「まったくもって自明の存在とは言えない自己利益の主体は、どこから出てきたものなのか。そしてどんな役割を、この社会で果たしてきたのか。これが本書のテーマとなる。」(p.14)

限界革命」を担ったとされる著名な経済学者メンガージェヴォンズワルラス三者による原著とその思想を追う第ニ部は非常に興味深い。この時代の経済学について、時代背景や思想に至るまでここまで丁寧に解説している著作はそう多くはないだろうと思う(自分が知らないだけかもしれないが)。

第三部でゲイリー・ベッカーを取り上げているのも面白い。彼の研究は、結果的に「経済」を経済学が対象とするものの極一部に過ぎないものにし、「社会理論」としての経済学という現在の立ち位置を確立させる一歩となったが、その考え方はかなり急進的で経済学史の中でも特異に映るものだ。フーコーがベッカーについて言及していたというのは知らなかったが、そのお陰でこの著者が彼の特異な試みと思想についてまとめる事となったのであれば、有難い事だ。

このように細部は興味深い一方で、大枠の主張には疑問が残る。著者は「ホモ・エコノミクスが…一つの社会規範として…多くの人に強いているのではないか」(p293) と主張する。しかし、著者がどのような社会でそうなっていると考えているかはこの本からは見えてこない。全世界か、経済学の起源であるヨーロッパか、経済学の拠点となったアメリカなのか、それとも冒頭で就職活動の話をしているからには日本のさらに首都圏なのか。議論のスコープが不明瞭である。

また、この主張を(どこかの社会において)仮に真として受け止めたとしても、その原因を何の検討も経ずに経済学に求めたのは安易だったのではないだろうか。というのも、

①まず率直に言って、本書で紹介されているものを含む経済学の考え方が、人々の精神性に何らかの影響を与える程、広く認知され浸透しているとはとても思えない。経済学の基礎となる学部レベルのミクロ経済学ですら、正確に理解している人々は多くて社会全体の数%ではないだろうか。

②事実として、経済学における合理的経済人は、著者の言うような「行動の…経済的無駄を省き、できるだけ儲かるように…意思決定する主体(p.17)」では必ずしもない。ある種の利他性や不平等への嫌悪をもつ主体など、「できるだけ儲かるように意思決定する主体」とは言えないものも、合理的経済人の枠組みで記述が可能だからだ。

③そもそも経済学にとってホモ・エコノミクスは、言ってしまえばただの「作業仮説」に過ぎない。そこに善・悪といった価値判断はない。あくまで議論を単純化するための「仮説(=仮にそうとするもの)」なのであって、それは経済学にとって「規範(=そうあるべきもの)」ではあり得ない。「単なる仮説がどうして規範性を持つに至ったのか」という著者の主張の裏付けには不可欠な問いに対しては、p133で僅かに語られるのみで、説得的な分析はなされていない。

この結果なのだろうか、代わりにこの著書には経済学について読者に誤解を与えるような記述が多々あるように思う。著者は、経済学についてはあくまで「富の道を追求する人間、貪欲を肯定する世界を…裏側からこっそり擁護し正当化する、ある「科学」」(p.100) としか書いていない。しかし、この本を読んだ多く読者は恐らく、著者の巧みなレトリックにより、「経済学がホモ・エコノミクスを規範として社会に広めてきたんだ!」というような"印象"を持ってしまうのではないだろうか。

また、本著の外部不経済(p193)、アローの定理(pp246-247、pp271-272)に関する記述などはかなり怪しい。しかし、経済学に馴染みのない読者はこの違和感に気が付きにくいだろう。現代の経済学が数学を用いるのは、科学性を装うためというよりも、こうした不明瞭さを防止するためという理由の方が大きい。数学という簡潔さ・明快さに優れた世界共通の言語は、不明確な議論や誤りの発見・防止に役立つと考えられているからだ。自然言語による分析の限界を、著者は図らずも示してしまっている。

最後に、これは細かい事だが、この本におけるグラフの引用目的については疑問を持たざるを得ない。著者はいくつかの箇所でグラフを引用している (ニュートン『プリンキピア』(p176); ベッカー『差別の経済学』(p212); ブキャナン&タロック『公共選択の理論』(p261)) 。図・グラフとは本来、何かしらを理解させるために付されるものであるはずだが、本著においてはグラフを読み解くための必要十分な解説が付されておらず、ただ眺めるだけの"飾り"となってしまっていないだろうか。著者は内容を理解した上でこれらのグラフを載せていると信じたいが、なぜ読者の理解を促すための解説を付さなかったのか疑問に感じざるを得ない。


【以下余談】
本書のアローの定理についての記述はかなり怪しいので、ここで指摘しておく。まず、教科書的な定理のstatementは以下の通りである。


『2人以上の個人と3つ以上の選択肢(社会状態)があるとき、弱パレート効率性 (WP)、定義域の非限定性 (UD)、無関係な選択肢からの独立性 (IIA) を同時に満たす選好集計ルールは、独裁性 (D) を満たす』*1

WP、UD、IIAの詳細は省くが、これらはアローが集計ルールとして望ましいと考えられ得るとした公理で、(数学が分かる人ならば)誰にでも意図が正確に伝わるように、明示的・形式的に定義された概念である。とりあえずなんだか良く分からない独自の概念、というものではない。

さて、上のstatementから分かる事は、アローの定理が「社会的なルールはどのように定められるべきかの条件」(p246) や「個人の選好のセットと両立できる社会のルールが一つに定まらないケースがあること」(pp246-247) を示したとするのはどちらかというと不自然であり、「一般に望ましいと考えられ得る条件を全て満たす集計ルールは、独裁制の一つにしか定まらないこと」を示したとするのが自然だという事である。

したがって、「個人の選択のセットから最適な社会的資源配分を一つに定められるという前提をとっていた厚生経済学に、大きな打撃を与えた」(p247) という記述も少し怪しい。選好と選択は異なる概念なので、「個人の選択のセット」という言葉遣いも微妙である。

次に、著者は「そもそもパレート最適が最善の政治的決定なのかどうかはとても怪しい」(p272) とする。しかし、アローの置いた公理WPは、実のところ非常に弱い要請である。これは、以下の定義を見るとよりはっきりする。

『WP: 全ての個人がxをyより望ましいとするならば、集計結果もxをyより望ましいとする』


ここでx, yは任意の社会状態(例えば資源配分)である。WPを否定するという事は、例えるならば、「ある政治家A, Bについて、国民全員がAの方がBよりも首相に相応しいと投票した」としても、「選挙の結果としては政治家Bの方が首相に相応しいとする」という集計ルールを許容するという事になるのだが、そのような選挙は果たして許されるのだろうか。

WPは、その内容から「全会一致性」とも呼ばれる。民主的な集計ルールを考える上で、最善どころか必要最低限とすら私には思えるのだが、著者はどのような事を想定して「とても怪しい」と感じたのか、気にならずにはおれない。

*1:ここで選好集計ルールとは、可能な社会状態全体の集合\(X \)上の、個人\( i (1 \le i \le n) \)の持つ選好関係の集合\(D_i\)の直積\(D=\times_{i=1}^n D_i \)の部分集合から、同じく社会が持つ\(X \)上の選好関係の集合\(R\) への関数\( f \)である。つまり、一つの選好関係のセットが与えられた時に、それらを「何らかの形」で集計して、社会全体としての選好関係を出力するものである。WP、UD、IIAといった諸条件は、「何らかの形」として望ましいと考えられる集計ルールの条件である。