エコノミック・ノート

経済学、読書などについて。

ヤン・エルスター『酸っぱい葡萄』pp.221-228について

ヤン・エルスター『酸っぱい葡萄』を読んでいて, よく分からなかったところ (pp.221-228) について内容と疑問点を整理しておく.*1 特にこの部分は, 選好の「自律」と厚生のトレードオフを指摘し, 新たな功利主義批判を提起した本書の核心でもある. 本文やページ番号は以下の邦訳を参照している.

 
エルスターの定式化の整理

原著の該当箇所では「適応的選好が功利主義に対して有する関連性について議論するために」(p.219),「産業革命は, 総体として良いものであったのか, それとも悪いものであったのか」(p.220) という問いについて議論がなされている.

この問題について功利主義者が何を言えるかを考えるために, エルスターは以下のような定式化を与えている. *2

  • ある  n (\in \mathbb{N}) 人の社会を考える. 人々の集合を  N=\{1,...,n\} とする.
  • 実現可能集合を  \{x,y,z\} とする. ここで,
    •  x は産業化する前の社会,
    •  y は産業化した社会,
    •  z はすべての人が(社会  y より)多く産業化の利益を得ている社会, をそれぞれ表す. *3
  • 産業化する前の社会  x において, 各人は効用ベクトル  u_1, ..., u_n \in \mathbb{R}^3 をもつ.  u = (u_1, ..., u_n) とする. *4
      • 例えば,  u_1 = (3,1,2) は, 「個人1は, 産業化する前の社会  x においては, 社会  x 3, 社会  y 1, 社会  z 2 とそれぞれ評価している」ということを表す.
      • 上の例において, 効用が序数的である場合は, 「個人1は, 産業化する前の社会  x においては,  x \succsim_1 z \succsim_1 y となる選好順序  \succsim_1 をもっている」ことを意味する. *5
  • 産業化した社会  y において, 各人は効用ベクトル  v_1, ..., v_n \in \mathbb{R}^3 をもつ.  v = (v_1, ..., v_n) とする.
      • なお,  \forall i \in N, u_i \ne v_i とする. *6
  • 可能な効用ベクトルの組の集合を  U とする.  u,v \in U である.

この定式化の特徴的なところは, 実現している社会に応じて人々のもつ効用ベクトル(原著では効用関数)が変わる, という設定となっていることである. この設定こそがエルスターによる「適応的選好形成」の議論における核心的/革新的な部分となっている.

ここで, 二つの社会厚生関数  f,g を考える. *7 社会厚生関数  h(=f,g) が効用ベクトルの組  w(=u,v) を与えられたときの社会厚生ベクトルを  (h_{x,w},h_{y,w},h_{z,w}) \in R \subseteq \mathbb{R}^3 とする. 社会厚生ベクトルは, 各人の効用ベクトルが社会厚生関数によって集計された結果を表し, 第1要素・第2要素・第3要素がそれぞれ社会  x,  y,  z の集計された評価値(序数的なケースではランキング)を表すとする.

  • 社会厚生関数  f: U \rightarrow R は, 以下を満たすものとする*8:
    • F1: 産業化する前の社会における効用ベクトルの組  u に従えば,  xを選択する.
      • つまり,  f_{x,u} > f_{y,u} および  f_{x,u} > f_{z,u}.*9
    • F2: 産業化した社会における効用ベクトルの組  v に従えば,  z,  y,  x の順に社会を評価する.
      • つまり,  f_{x,v}<f_{y,v}<f_{z,v}.
  • 社会厚生関数  g: U \rightarrow R は, 各人の効用ベクトルの和をとるものとする.
      • 例えば,  N=\{1,2\} の社会で,  u_1 = (2,1,3), u_2 = (4,0,1) のとき,  g(u) = (6,1,4) となる.

最後に、以下の3つを仮定する:

  • A1:  g_{x,u}>g_{y,u} および  g_{x,u}>g_{z,u},
  • A2:  g_{x,v}<g_{y,v}<g_{z,v},
  • A3:  g_{x,u}>g_{y,v}.

A1,A2は,  g f と同じく, 産業化する前の社会における効用ベクトルの組  u に従えば  x を選択し, 産業化した社会における効用ベクトルの組  v に従えば,  z,  y,  x の順に社会を評価することを意味している。*10

とくに最後の仮定A3が重要である. これは,「産業化する前の社会  x における各人の  x への評価の総和が, 産業化した社会  y における各人の  y への評価の総和よりも大きい」ことを意味している. エルスターの説明を引用すると,「 z y よりもずっと良いものであるがゆえに新しい水準での欲求を創出するのに十分であり, その欲求不満は実際に人々を  y において, 彼らが  x に置かれていたならば享受していたであろうよりも基数的に悪い状況に置く」(pp.223-224) ということである.

ここまでがエルスターの定式化(を整理して書きなおしたもの)である. ここから私の疑問点を挙げていく.

 
疑問点1.

エルスターは自らの与えた定式化について以下の通り説明している:

このことは, 産業化以前 (記事注: 社会  x) には序数的なケース (記事注:  f) においても基数的なケース (記事注:  g) においてもともに, 諸個人はあらゆる実現可能な世界 (記事注:  \{x,y,z\}) の中で最もいい生活を送っている, という事を意味する. (p.223)

これは仮定F1およびA1から言えるという事なのであろうが, 不適切であると思われる. 「諸個人はあらゆる実現可能な世界の中で最もいい生活を送っている」ということは, 諸個人の効用ベクトルが与えられていなければ主張できないが、それについて本文では何も仮定されていないからである. さらには, 仮に効用ベクトルの組が与えられていたとしても, 以下のような反例が考えられる:

    • 分かりやすく極端なケースを考える.   N=\{1,2,3\} の社会で,  u_1 = (1000,100,10), u_2 = (1,2,3),  u_3 = (1,2,3) とする. このとき仮定F1よれば  f は何にせよ  x を選択し, 一方で  g(u) = (1002,104,16) となるので  g x を選択する. このケースはF1,A1を満たすが, 個人2,3は彼らにとって最もいい生活を送っているわけではない.

同様の疑問が, 直後の以下の記述にも当てはまる:

産業化以後 (記事注: 社会  y) には, このことはもはや真実ではない. 社会選択はいまやずっと産業化された世界 (記事注: 社会  z) を選ぶだろうからである.

上の例からも分かる通り, エルスターの定式化では, 各人の順序とその集計された順序が同じであるとは限らないが, なぜこのようなことが言えるのだろうか.

 
疑問点2.

エルスターはこのケースの分析から以下を結論づけ (pp.224), 最終的にこれらが功利主義への反論となることを論じている (pp.227-228):

  • 序数的な功利主義者は社会  x,y のどちらがより推奨されるかを決定することが出来ず, 指針を与えることが出来ない. (社会  x では  x の方が良く, 社会  y では  y の方が良いとしか言うことが出来ない.)
  • 基数的な功利主義者は, 効用の総和がより大きい社会  x を選択せざるを得ないが, その結論は直観に反するので受け入れがたい.

これらの結論それ自体は正しいと思われるが, 以下ような疑問が残る.

  • 産業化の良し悪しという当初の疑問に答えるなら, 比較すべきは  x,y ではなく  x,z ではないだろうか. というのも  z はあくまでまだ実現していないだけであって, 産業化によって実現可能となるより良い社会なのであり, 少なくともこのモデルにおいては, 産業化によりもたらされる真の社会的価値を測るにふさわしいものと考えられるからである.
    • エルスターはこの社会  z について何の実質的な仮定も置いていないが, 仮にこの状態が以下を満たすならば, 序数的な功利主義者も  z の方が  x よりも良いと結論付けることは可能である:
      •   z における人々の効用ベクトルの組を  v' とする. 
      •  すべての人々は,   v' において  z を,   u においての  x よりも高く評価している.
  • エルスターは仮に  z という選択肢がなかったとしても, 自分の議論は成り立つとしている (p.224). *11 その場合の仮定A3の説明の修正として, 以下の通りやや怪しげなことを述べている:

「われわれはこれらの奇抜で新しい品物を手に入れることで前よりも幸せになった. しかしいまやわれわれはそれらなしには惨めな思いをしてしまうだろう.」これがありそうもないストーリーではないことは明らかである.

    • 端的に言って, エルスターの2つ目の結論は仮定A3に大きく依存しているのであり, むしろその仮定にそれほどの妥当性がないことが直観に反する結論をもたらしていると考えた方が良いのではないだろうか.
    • こんなことを言わずとも, 総和主義的な功利主義が擁護しがたいということは, 効用の個人間比較可能性に関する怪しい仮定を置く必要があるなどの既知の理論的欠陥を指摘するだけで十分であると思われる.

 

*1:私の読解力不足によりこの本にはよく分からないところが多いが, ここは特によく分からなかった.

*2:原著の定式化にはあいまいな部分が多いので, 可能な限り明示的になるように書き直している.

*3:原著では  z について「より多くの人々が産業化の利益を受け取っている社会, あるいはすべての人々がより多くの利益を受け取っている社会」(p.222) としているが, 簡便のためここでは後者としている. そもそも, すべての人々がより利益を得ているのかそうでないのかで, パレート基準を満たすかどうかが変わるので, 原著の時点で明確にしておくべきところである.

*4:原著では効用関数としているが, 実現可能な状態が3つしかないこのケースでは, この定式化で十分である. 以下同様.

*5:一般に  \succsim は,  a \succsim b a b よりも好まれることを表す二項関係である.

*6:この仮定は原著では明示されていないが, これを仮定しないとこれ以降の議論が意味をなさないので, 置いていると思われる.

*7:原著はこれらを社会選択関数 (social choice function) と呼んでいるが, 選択結果ではなく順序 (ランキング) が出力となる関数である原著のような場合には, 社会厚生関数 (social welfare function) と呼ぶ方がより適切である. 原著では序数的・基数的の2つのケースが想定されている. ここでは  f が序数的,  g が基数的なケースにそれぞれ該当する.

*8:原著では以下を効用ベクトル  u についての仮定だとしている. しかし, ここまで  f については「何らかの種類の社会選択関数であるに違いない」(p.222) としか述べられておらず, それが具体的にどのような特性(パレート最適である, 非独裁的である, etc.)を持つ関数であるのかが全く記述されていない. したがって, 以下で与えられる  f による選択結果についての仮定から, 人々がどのような効用ベクトルを持ちうるのかを逆算することは不可能である. エルスターの意図はどうあれ, これらの仮定は社会厚生関数  f について仮定であると考えざるを得ないと思う.

*9:念のため,  f_{x,u} は 効用ベクトルの組  u が与えられた時の, 社会厚生ベクトルの第1要素であり, 社会  x に対する各人の評価の  f による集計結果を表す. 以下同様.

*10: g の関数形はすでに与えられているので, これらを満たすような効用ベクトルの組になっているということである. A1-A3については, エルスターの意図通り, 効用ベクトルの組に関する仮定になっている.

*11:原著には「 y における社会選択が  x ではなく  y を選ぶとしても」とあるが、「 y における社会選択が  z ではなく  y を選ぶとしても」の誤植であると考えられる.

哲学をファッションとして学ぶ

哲学を"ファッション"として学ぶことについて嫌悪している人を見かける。*1 彼らが真に意図するところは正直よく分からないし、通常の意味でのファッション業界に対して失礼だとも思うのだが、恐らくは「哲学をやっていると言いつつ、趣味として適当に流して済ませる怠惰で欺瞞的な奴が鬱陶しい」くらいの意味かと思う。

彼らに言わせれば、私は恐らく"ファッション"で哲学をやっているタイプに含まれる。そんな私がそもそもなぜ哲学を学んでいるのだろうということが気になったので、少し整理してみる。ある程度に一般的かつ具体的な理由を示すことができる気がしており、せっかくなので私の元々のバックグラウンドの経済学と比較しながら、その理由を述べます。

① 参入障壁の低さ

まず、率直に述べると哲学は経済学よりも学びの参入障壁が低い。これは哲学を"究める"ことが経済学を"究める"ことよりも簡単だということではなくて、学びを始めやすい環境がより整っているということである。具体的には以下の理由によると思われる。

新書/文庫/選書などに安価な一般書が多い、一部では本格的に入門できる

良質とされる哲学関連の一般書は多い。例えば近代くらいまでの有名な哲学者について知りたいという場合、その哲学者の名前で検索すればロングセラーであったり評判のいい新刊であったりする入門書が大体ヒットする気がする。現代哲学についても、ここ数年だけでも色々な入門書が次々と出続けている印象がある。これらの書籍は内容的に読みやすいことに加えて、比較的安価でお財布的にも手に取りやすく、参入障壁が低い。

もっと言うと、経済学と比較して、哲学の一部の入門書についてはかなり本格的に入門できるという大きな利点がある。経済学の一般書も決して少なくはないし、ロングセラーも評判のよい新刊もある。しかし、本格的に入門するにはどうしても込み入った数式や統計手法の説明をする必要があるので、紙面の限られる新書・文庫・選書といった媒体で刊行することが難しくなる。*2 結果として、本格的に入門するにはきちんとした教科書を読むしかないのだが、込み入った数式・証明や統計手法を独学で追うのは中々骨が折れるし、さらには学部レベルの教科書でも1冊3,000円くらいはするので、内容的にもお財布的にも手に取りにくく、参入障壁が高くなる。更に院レベルの教科書になると洋書に当たらなければならない場合が多く、そうなると更に労力と金銭コストがかさんでしまう。

英語圏の教科書が薄めで通読しやすい

経済学でよく使われる英語圏の教科書は600-1000ページくらいで、通読が容易ではない。授業を受けながら1-2年をかけて1冊読む、もしくはチャプターを選んで読むことがほぼ前提になっていると言って良いだろう。こういった本を全く関係ない日々の仕事をしながら1人で読み進めるのは中々につらい。かつ概ね高額(1-3万円程度)なのでお財布的にもつらい。

哲学の教科書や研究書は(正直あまり数多く見ているわけではないが)洋書でも500ページ以内に収まっていることが多い気がする。ページ数が少なければ簡単という話では全くないだろうし、その分何冊か読むことになるのだろうが、心の持ちようというか、これなら通読できるかも!という気持ちを持ちやすい。ページ数が少ない分だけ平均して安価でもある(1万円前後ほど?)。全く関係ない仕事をしながら、趣味としてやる分には、内容的にもお財布的にも丁度よいくらいの負荷ということになる。*3

※哲学を学ぶにあたり教科書を読むことにどれほどの重要性があるのかはよく知らない。経済学を勉強するに当たって、(論文で学ぶ前段階として)英語圏の教科書を読むことはかなり重要だと思うが、哲学では研究書を読む方が主流?なのかもしれない。ただ、研究者でもないのに研究書を上から下まで読むのもというのもどうなのだ、まずは教科書を読む方が現実的ではないか、という話があると思う。

② 持続可能性の高さ

哲学の特徴として、入り口がよく整っているだけではなく、その後の学びを持続しやすい性質があると思われる。

コンテンツが大量かつ幅も広いので飽きにくい

哲学はなんだかんだで2000年以上の歴史がある分野なので、コンテンツが大量にある。さらには、やられていることも時代や地域や人によって全くと言っていいほど異なるので、バラエティに富んでいる。学んでいて飽きがこないので、継続しやすい。

一方で経済学では、方法論がかなり固定化されているため、どこまでいっても最適化問題を解いたり業界でよく使われる手法で実データを分析したりと似たようなことがやられている。古典を読むという慣習も基本的にはなく、過去のものは過去のものとしてあまり読まれることはない。現代の経済理論の蓄積は長く見積もってもせいぜい100年程度であり、あまりバラエティに富んでいるとは言えない。〇〇経済学という名前のついた分野自体は多々あるにしても、その本質的な部分(定式化や統計手法など)はどこでも共通している為、どれも似たり寄ったりに感じやすく、結果として飽きやすい。

緊急性が低く、気楽に続けられる

哲学を趣味として学んでいる中で、「この部分を明日までに理解する必要があるのに、どうしても分からない」ということでストレスを感じることは滅多にない。何らかの哲学的議論が理解できないところで日常生活に大して支障はないため、自分のペースで理解を進めれば良く、学びを気楽に継続しやすい。

一方、例えば仕事のための勉強であれば、理解できていない事項をそのまま放置しておくと仕事上のミスに繋がり、自分の評価・月給が下がるという目に見えるリスクがある。人間は一般的にリスク回避的であり、リスク回避的な人間にとって、コントロールできるリスクは顕在化しない内にどうにかしたいものである。つまり、分からないことを早期に理解しなければならないという緊急性が高い。その分だけ、勉強自体にストレスがかかるため、勉強を継続する心理的コストが大きい(したがって早く勉強を終わらせたくなる)。

経済学については、研究者でなければあまり学びの緊急性は高くないと言える一方、「経済学を学んだと言うからには知っていなければならない常識」というようなものがあり、それらをイマイチ理解できなかったり思い出せなかったりして度々見返さなければならず、ストレスを感じるということがそれなりにある。しかも、そういった内容は、最新の議論を把握するために必要という訳でもなく、むしろ全く紐付かないという場合すらあり、学びのモチベーションを減退させる(ミクロの一般均衡理論などはその典型)。

③ 同好との交流のしやすさ

さらに哲学コミュニティの特徴として、インターネットでの交流が盛んという点があると思われる。

対話相手が多い

哲学の議論の多くは自然言語で行われるため、SNSやブログでの情報発信に適している。哲学研究者や自分と同じように哲学を学んでいる人々が、ちょっとした思索や研究内容を語っていることを度々見かけることがある。日々の中で哲学に触れているという感覚を得やすく、なにより情報収集がしやすい。この事が学びのモチベーションの維持に繋がる。

一方の経済学では、先程も述べた通りきちんとした議論をするには込み入った数式や統計手法を導入する必要があるが、これは少なくともSNSでの情報発信に適していない。更に言うと、率直に言って経済学には"敵"が多く、インターネット上で議論をすることそれ自体、思わぬところから攻撃を受けるリスクがあることが否めない。結果として、SNSの経済学者たちは研究について積極的に議論をすることをあまり好まない。自称経済学に詳しい人達についても、対話相手としてどこまで信頼できるかの判断がSNS上では難しい。こういった状況なので、同好の士との気軽な交流がしづらく、情報収集もしにくい傾向にあると思われる。

 

最後に

上記のことを考慮すると、哲学を趣味とするというのはむしろ自然な流れなのではないかとすら思えてきます。今現在、信頼できる同好の方を探しています。代わりに経済学をある程度教えられますので、ご興味のある方、ご連絡を頂けますと幸いです。

*1:こう書くと、そもそも哲学を学ぶということはできない、というカントの言葉を借りたマウントを取られることもあるので注意。哲学はこうしたしょうもない行為のためにあるのではないと思うのだが。

*2:全てがそうではないとは言えど、多くのこういった媒体の経済学の一般書はそこら辺を上手く誤魔化していて、一般書に限らずそういうコンセプトで書かれた教科書もある(マンキュー経済学など)。

*3:Stanford Encyclopedia of Philosophy といった、かなり良質なフリーアクセスの資料も存在する。

ジョセフ・ヒース『ルールに従う』を読む part1

(終わりがいつになるのか分からないが)『ルールに従う』の読書メモを残していく.

本書は, 現代経済学および哲学史・現代哲学の双方の広範な基礎知識がないと読み進めることが難しく, ハードルが高い. どちらかのバックグラウンドを持つ方にとって助けとなるであろう注釈をなるべく付けていく.

本文およびページ番号は以下を参照する.

今回は, 日本語版の序文についてまとめる.

序文の要旨は2つである. 1つ目は本書の前半の要旨と対応しており, 2つ目は本書の後半の要旨と対応していると理解してよいと思われる. なので, ここを注意深く読んでおくと, 本書全体の理解がより容易になるはずである.

まずは1つ目の要旨から見ていく.

要旨①

  • ルール遵守は, 他の動物と比較しても際立つ, 人間の社会的行動の最も重要な特徴である.
  • ところが社会科学者, とりわけ経済学者は, ルール遵守という現象を正真正銘のものとして認めることを忌避してきた.
  • 彼らは, 意思決定を最適化問題として扱うモダンな方法論に誘導された結果,(ルール遵守という)最適化ではない行為を, 最適化として扱う強い欲求をもった.
  • しかし, 彼らが扱うような社会科学における形式的なモデルにルール遵守を導入することができないという根拠はない.

ヒースはまず, ルール遵守を人間の社会的行動の最も重要な特徴と位置付ける. さらに, わざわざ「人間の」と述べられている通り, ヒースにとって, ルール遵守は「他の動物とは異なる」人間の社会的行動の際立った特徴である. 人間を動物種として見た場合に, ルール遵守という道徳的・規範的行為が, 他の動物との最も大きな違いとして浮かび上がる, ということである. *1 *2 ヒースは以下の通り述べている.

公平な観察者であれば容易に, 人間の社会的インタラクションを他の動物のそれと比較する時, ルール遵守が人間の社会的行動のもっとも重要な特徴であるという結論に至るだろう (p.iii)

一方でヒースは, 社会科学者(とりわけ経済学者)たちには人間の社会行動におけるルール遵守を無視するか, 誤って解釈してきたと指摘する. それはかなりざっくり言うと, 「人間がルールに従うのは彼らにとってその方がよいからであり, ルールを遵守するため"だけ"に最も選好する結果を選ばないということはありえないだろう」という考え方である. 更にその背景として, 意思決定を最適化問題として定式化する20世紀以降の現代的な方法論*3 による影響があった, と指摘する.*4

ルール遵守が課す最重要の課題は, ルールに従う限りにおいて, 人々がもっとも選好する結果について最大化しないだろうということ (p.iv)

明白なルール遵守のあらゆる事例はないものとして説明でき, 合理化できると信じたいという強い欲求があった (p.iv)

その背景には, 明らかに最大化していない行為形態を最大化として扱うという, 方法論的に誘導された強い欲求があった (p.iv)

ここで個人的に気になる点を述べておく. 経済学者たちによるルール遵守という現象を認める事への忌避は, 最適化という方法論によって誘導されている, という指摘はある程度妥当性があると思われる. 一方で, それが経済学者たちの「欲求」に基づいていたかは定かではない. 「ルール遵守を意思決定モデルに導入すべきか」という問いは, 意思決定問題の定式化に関する規範的な問いである. したがって, 経済学者たちは「どうしたいか(欲求)」よりも「どうあるべきか(規範)」に基づいて定式化の判断をしていると考えた方が自然に思われる. 例えばオッカムの剃刀という方法論的規範があるように, 経済学者たちには経済学者なりの方法論的規範があり, 彼らそれに従っているだけではないか, ということある. *5 モデリングの妥当性についての議論は標準的なゲーム理論の教科書や公刊論文ではわざわざ記述されないため, もっぱら教科書や公刊論文でゲーム理論に触れる(分野外の)研究者に伝わりにくいという背景がある気がする. 

ともあれ, ヒースはそうした欲求ないし規範には根拠がないと主張する. そして, 本書の前半の目標について以下のように述べている.

最初の3章において私が着手したのは, 行為の経済学的モデルが, ルール遵守を表現し, 取り入れるためにどのように修正できるのかを示すこと (p.v)

私の主要な目標は単に, ルールがそれほどエキゾチックなものではないという事を示すこと, そしてルールを導入することが社会科学におけるフォーマルなモデル化におけるわれわれの能力を阻害すると恐れる理由がないことを示すだけのこと (p.v)

ここまでが1つ目の要旨の内容である.

 

続いて2つ目の要旨を見ていく. 本書の後半に対応するこちらの方がより重要な主張である. 

要旨②

  • 実践的推論においては, ルールの導入により, 信念と欲求の単純な組み合わせ以上のことが起こっている.
  • 合理性は, それ自身でルール遵守能力の一種である.
  • 「自分にとってより悪い結果をもたらすとしてもルールには従う」という奇妙さは人間の認知の深いところで作用しており, 人間の合理性の一部である.

まず用語を確認する. 実践的推論(practical reasoning)とは, 実践理性(practical reason)が働くこと、ないし実践理性の働きにより推論をすることである. そして実践理性とは, 「何を行うべきかという問いを, 内省を通して解決するための人間の一般的能力」のことである. *6 *7

ヒースは, この実践理性の働きによる意思決定プロセスの中で, 信念と欲求という現代の標準的な行為モデルが想定するシステムとは別に, ルールという別個のシステムがどこかで作用していると主張しているのである.*8

さらにヒースは, 信念と欲求についても下記の通り主張する.

  • 信念と欲求は命題的態度であり, その構造において本質的に言語的である. (p.v)

この主張の内実については序文では述べられていないので本文を待つしかないが, 取り急ぎ「信念と欲求はどちらも, 命題として記述することができるような人間がとりうる態度のことである. 命題は言語的構造(構文論・意味論など?)を有しているので, 信念と欲求も同様に言語的構造をその本質として有している」くらいに解釈しておく.

このように考えると, 「信念と欲求などの状態についてよりよく理解するために言語哲学に目を向ける」(p.v) のがよいだろうということが分かる. ヒースは, 後期ウィトゲンシュタインの議論を示唆しつつ, 以下の通り述べる.

  • われわれが意味のある言語行為をする能力は, われわれのルール遵守能力を前提としている. (p.v)

ここで意味のある言語行為*9とは, 意味のある発話をしたり, 意味のある思考を持ったりする行為一般のことである. (p.v) ルール遵守能力をもつことは, 意味のある言語行為をする能力をもつことの条件である, とヒースは述べている.

ところで, 信念と欲求は命題的態度であり, 本質的に言語的なのであった. そうすると, 意味のある信念と欲求をもつこともまた, 意味のある言語行為の一種であろう. さらに, 信念と欲求は実践的推論の構成要素の一部であるから, ルール遵守能力は, 実践理性を働かせる能力の条件でもあるということになる. このようにして, ルール遵守能力こそが, 理性(合理性)*10の背後にあるのだという結論が導かれる. これがヒースの主張するルール遵守と合理性の内的関係である, とここではざっくり理解しておく.*11

さらにヒースは, もう一歩進んで以下のようにも主張している:

このことはさらに, ルールに従うことがわれわれの選択することであるばかりでなく, 合理的存在としてのわれわれの本性の一部でもあるかもしれない事を示唆している (p.v)

最後に, 何故わざわざこのような論証をするのかについてもヒースは述べている.

私の目的は, ルール遵守のこの特徴 [記事注: 自分にとってより悪い結果をもたらすとしてもルールに従うこと] が奇妙であると認めること, しかし, この奇妙さは人間の認知の深いところで作用しており, 実際, 人間の合理性に大して構成的な構造の一部をなしていると論じること (p.vi)

「自分にとってはよくない結果になろうが, ルールには従う」という現象は確かに奇妙である. しかし, この奇妙な現象は実際に起こっているのであり, (今まで社会科学者・経済学者たちがそうしてきたように)それを信念と欲求のみに還元して説明したり, ただ不合理性として片づけたりするべきではない. それはあくまで合理性の一部として理解されるべきものなのである, というのがヒースの意図するところであろう. *12

ここまでが2つ目の要旨の内容である.

 

参考文献

白川晋太郎 (2021)『ブランダム 推論主義の哲学 -プラグマティズムの新展開-』青土社.
ヒース・ジョセフ (2013) 『ルールに従う -社会科学の規範理論序説-』瀧澤弘和訳. NTT出版.
御子柴善之 (2024) 『カント 実践理性批判KADOKAWA.
Wallace, R. Jay and Benjamin Kiesewetter, "Practical Reason", The Stanford Encyclopedia of Philosophy, Edward N. Zalta & Uri Nodelman (eds.),<https://plato.stanford.edu/entries/practical-reason/>. 2024/8/24 accessed.

*1:経済学サイドへの注釈: 何故わざわざ人間を他の動物と比較するのか不思議に思われたかもしれない. ヒースはここで, 「自然主義」という哲学的立場を念頭に置いていると思われる. 自然主義とはざっくり言うと, 哲学と科学の連続性を重視しつつ, 道徳や人間本性などの哲学的問題を自然科学的根拠と整合的に議論しようとする立場である(方法論的自然主義という). 認知心理学や進化生物学などの研究を参照する自然主義哲学者にとって, 人間はある生物種としての傾向性を持った動物の一種であるという事実はとても重要なのである.

*2:これは強めのコミットメントだが, ロバート・ブランダムの推論主義プログラムの背景にある, 人間を「理性的存在者」として捉える合理主義的人間観に影響を受けていると思われる. 「ブランダムは人間と他の動物との差異に注目し, そうした差異を成り立たせるものとして, 「理由の空間」の内に住む規範的な存在か否かという点に注目する. 理性的存在者としての私たちは, 「理由の空間」に住んでおり, 「理由を与え求めるゲーム」としての規範的な「言語的実践」を営んでいる」(白川2021, pp.79-80) また, 後々分かることだが, ヒースはブランダムの反表象主義の徹底にも影響を受けている.

*3:哲学サイドへの注釈: 意思決定理論のフォーマルな内容をざっくり理解しておいた方が良いと思われるのでここで記載する. ①単純な意思決定問題はまず, 1. 選択肢の集合 2. 選択肢の集合上の選好関係 の2つで定式化される. ここで選好関係とは, 意思決定者が持つ各選択肢の好みの順序を表現するものである. ②次に, 選択の帰結に危険 (risk) がある場合には, 意思決定問題は I. 帰結の集合, II. 帰結の集合上の確率分布, III. II.の確率分布上の選好関係 の3つで定式化される. このときII.の確率分布は, モデルで外生的に与えられているという意味で「客観的確率」であり, この場合を定式化したのはジョン・フォン・ノイマンオスカー・モルゲンシュテルンである. ③さらに, 選択の帰結に不確実性 (uncertainty) がある場合には, 意思決定問題は a. 状態の集合, b. 帰結の集合, c. 各状態にある帰結を与える行為の集合, d. 行為の集合上の選好関係 の4つで定式化される. この場合を定式化したのはレオナルド・サヴェッジであるが, さらに拡張された定式化もある. 上記のいずれを扱うにせよ, 意思決定理論は, 何らかの好みの順序の表現である選好関係に, いくつかの満たすべき仮定(公理という)をおくことで, それらを満たすような選好関係を表現する, 実数値の効用関数の存在と一意性を示すことを目指す. そうすることで, 選好関係に基づく意思決定問題を, それと完全に対応する, 数学的に扱いやすい効用関数の最大化問題として書き換えるのである. ちなみに, ①ではある実数値効用関数, ②では期待効用関数, ③では主観的期待効用関数の最大化問題にそれぞれ書き換えられる.「効用関数はどこからかポッと出てくるものではなく, 背後にある何らかの選好関係を表現したものである」という理解が非常に重要であるとともに, 「目の前の効用関数が何の集合上の選好を表現しているのか」を常に意識するのがコツである.

*4:原著では「最大化」という語彙が用いられているが, ここでは「最適化」とする. 最大化問題は最適化問題の一種であり, 両者は本質的には何も変わらない.

*5:その規範が分野の外側から見ると奇妙であり批判に晒されるに値する, ということは当然あり得るだろう.

*6:"Practical reason is the general human capacity for resolving, through reflection, the question of what one is to do." <https://plato.stanford.edu/entries/practical-reason/> 2024/8/24アクセス.

*7:経済学サイドへの注釈: われわれは日頃の意思決定において, 何らかの思考プロセスを通して, 諸々の行為をするべきかするべきでないかを判断しているはずである. その思考プロセスにおいて働いているのが, 実践理性と呼ばれるものである. エマヌエル・カントは, 『実践理性批判』において,  次のような(純粋)実践理性の根本法則を打ち立てた.「君の意思の格率が, いつでも, 同時になんらかの普遍的な立法の原理として妥当し得るような, そのような行為せよ」(御子柴2024, p.105)カントは, これが(純粋)実践理性によってわれわれに与えられる意思規定基準であるとともに, 普遍的な道徳的法則の根拠でもあると論じた.

*8:したがってここでのヒースの議論は, カントの実践理性論の擁護の一つのタイプである.

*9:どのような意味論にコミットしているかはこの時点では不明であるが, 後期ウィトゲンシュタインに言及していることから, 使用説(経済学サイドへの注釈: 文・語の意味は, その文・語が社会的文脈でどのように使用されるかによってのみ定まるという, 言語哲学における考え方. ルートウィヒ・ウィトゲンシュタインの後期の主著『哲学探究』にそのルーツがあり, ロバート・ブランダムもこの考え方をある形で踏襲している)を支持していると推測ができる.

*10:ヒースはこの後の章で実践理性(practical reason)という語彙をあまり用いずに, 実践的合理性(practical rationality)という語彙を主に用いている. 2つの語彙を使い分けている理由はこの時点では正直よく分からないが, 取り急ぎ同じものと解釈しておく.

*11:なお, これはいわゆる超越論的論証の一種である.

*12:本文p.66にこの論点についての記載がある.

【書評】佐々木敦 ニッポンの思想 増補新版

 

 

オススメ度 ☆☆

 

80年代に流行したニューアカから始まったとされる、ニッポンの"思想"の一連の流れをざっくりと解説している書籍。タイトルとは裏腹に、本書で実際に扱われているのは狭義の"批評"と呼ばれるものの系譜である。

2009年に刊行された同名の新書に、著者がテン年代と呼ぶ2010年代以降の"批評"の流れが増補されている。元々新書という事もあり、かなり読みやすい文体で書かれている。約400頁とまぁまぁのボリュームがあるが、(私のような)ズブの素人でもすらすらと読み通せてしまうであろう。

本書の冒頭にある、内容を伴わない(?)パフォーマンス性、まるでシーソーのように堂々巡りする変遷の過程、商品として流通するようになった"思想"、といった筆者による"批評"の特徴付けは、やや冷ややかながらも見事である。

過去の資料や事実、そして原文を多く提示している労作である一方で、著者の主観的記述も散見される。ざっと眺めるだけでも、「〜だと思います。」で終わる文がやたらと多い事に気が付くであろう。実際、これは著者も認めるところであり、プロローグには「客観的な通史であろうとするよりも、…筆者自身が直に受け取り得た限りでの…「歴史」を…描き出して」みる試みとある(p.10)。

他書と比較して、扱われる"思想家"は限定的である。例えば山口尚『日本哲学の最前線』では、現代日本の哲学研究者/思想家として國分功一郎、青山拓央、千葉雅也、伊藤亜紗、古田徹也、苫野一徳の6名を扱っている。そのうち本書で扱われているのは國分功一郎、千葉雅也の2名のみである。何故このようになっているのかと言えば、著者が狭義の"批評"の系譜の担い手と認めるのがこの2人のみだからであろう。この点からも、本書が広義のニッポンの"思想"ではなく狭義の"批評"について書かれたものである事が分かる。

したがって、広義の日本の"思想"を体系的にインプットしたいという方にはオススメ出来ない。また、狭義の日本の"批評"にどっぷりと浸かりたいという方にもあまりオススメ出来ない。あとがきにある通り「本書は一種の「入門」」(p.397)という位置付けであり、それ故に各批評家についてはごく表面的な解説しか与えられておらず、それすらも著者による独自の解釈を通したものとなっているからである(無論、興味深い指摘はあるが)。

この本に最も適している読者は、「かつて流行に乗って現代思想にチャレンジしたが当時は挫折してしまった。果たしてあれらは何であったのか、もう一度だけチャレンジしてみたい」という懐古的な層、あるいは「ニューアカやら批評やら良く知らないが、どうやら昔は流行っていたらしい。正直深入りするほどの興味は全く無いが、一応なんとなく位は知っておくべきか」といった(私のように)不真面目な層であろう。実際そのようなニーズは一定程度あると思われ、本書はそうしたニーズを十分に満たしていると思われる。あまり気を張らずにさくっと読むのが良いだろう。

『「新自由主義批判」批判』に寄せて

新自由主義」を批判する文脈において, 典型的に見られる問題点をリストアップした記事が公開されている:

kozakashiku.hatenablog.com

 

論点が包括的に整理されており, かつ内容が丁寧なので, この話題についてのベンチマークとなり得る労作である. 一方で, 箇条書きという形式のため, 全体を体系的に捉えにくくなっている感もある.

 

蛇足を承知しつつも, 上の記事で指摘された問題点のリストをストーリー立てて再編集する事で, 更に問題の所在と解決の方向性をクリアにしたいと思う.

 

まずは上の記事を一読して内容を把握して頂き, その上でこのエントリを読んで頂くと, よりスッキリと理解して頂けると思う. というか, 上の記事(以下, 元記事)の内容を前提としたいので, 必ず読んでください.

 

① 『「新自由主義批判」批判』の定義

 

元記事を踏まえて, まずは『「新自由主義批判」批判』が結局のところ何であるのかを簡潔に述べる.『「新自由主義批判」批判』とは, つまるところ以下のような主張である:

以下の論法1,2はどちらも不適切である:

論法1. 任意のA (≠新自由主義) について,

  1. A は新自由主義の一部もしくは結果である
  2. 新自由主義は規範的に悪い
  3. 1かつ2より, A は規範的に悪い

論法2. 任意のA (≠新自由主義) について,

  1. A は新自由主義の一部もしくは結果である
  2. A は規範的に悪い
  3. 1かつ2より, 新自由主義は規範的に悪い*1

ここで以下の2点について注意したい:

  • 上の定義は,「新自由主義」という語彙の実質的意味に依る事なく与えられる. つまり,新自由主義」がいかなる意味で用いられようが*2, この論法は不適切だという主張である.
  • どちらの論法においても, 1∧2→3という推論の規則それ自体に致命的なまでの欠陥はない.*3 問題があるとされるのは推論の過程ではなく, 主張1,2が共に真であるという前提である事が多い.

 

② 論法1,2はなぜ不適切か

 

問題があるとされるのは主に推論の過程ではなく, 主張1,2が共に真であるという前提であると述べた. より具体的には, 元記事の内容をまとめると, 論法1,2が不適切な理由は以下の2点に集約できる:

  • 主張1.を検証する手立てが乏しいか, あるいは存在しない
  • 主張2.を公理として採用すべきかは自明ではない

1つ目の理由は元記事の「検証が不可能/困難」の項目に該当し, 内容は元記事で解説されている通りである. 強調すべきは, ①「新自由主義」という語義自体が曖昧な事, ②定義が乱立している事, ③アドホックに定義を修正出来てしまう事は全て, この1つ目の理由の根拠であると位置付ける事が出来る, という事である. 

2つ目の理由は, 元記事の「規範的根拠が曖昧」の項目に該当する. 元記事では論法1,2が明確に区別されていないが, 論法1の場合についてはジョセフ・ヒースを引用した箇所の前後で解説されている. 論法2の場合については更にその直後で, 「主張2.を公理として採用する」事を一定程度許容しつつも, その場合に乗り越えるべき壁(=1つ目の理由)はあると指摘している. 

 

③ なぜそのような論法がまかり通って来たか

 

では, なぜそのような論法が今までまかり通って来たのだろうか?その理由として挙げられるのが, 元記事で指摘されている以下の2点に他ならない:

  • 新自由主義批判」に対してわざわざ反論する者が少ない
  • 批判者に対してレッテルを貼る事で批判を無効化しやすい

そして, それらの結果として,

  • 賛同する者だけが集まる閉じたコミュニティが作られる
  • 議論を洗練させるための環境が構築できない

という事である.

 

④ 今後どのようにあるべきか

 

では, 「新自由主義批判」はこの先どうあるべきなのか.*4

元記事の終盤では, 以下の3つの方針について述べられている:

  • 新自由主義」の定義を整理して改訂する
  • 定義の混乱は許容しつつも各自で有用と思われる定義を明示する
  • 新自由主義」という言葉の使用を止める

ここで, 仮にこのうちいずれかの方針を取った場合に, 先程述べた

  • 主張1.を検証する手立てが乏しいか, あるいは存在しない
  • 主張2.を公理として採用すべきかは自明ではない

という論法1,2の問題は解消されるのか, という点は確認すべきである. 

まず, 2つ目の方針についてはどうか. 仮に 「私は新自由主義という言葉を私の議論にとって有用なこの意味で用います」と明示したとしても, 例えばウェンディ・ブラウンの議論のように, 明示された定義を元にした議論から実証的含意を得られないのであれば, 1つ目の問題が解消される事はないだろう. 

また, 1つ目の方針を取る場合にも, 定義が改訂され明確になっただけでは, どちらの問題点も直ちには解消されない. むしろ, 定義が明確になる事で, ようやく2つの問題点を解消するスタート地点に立った状態とも言えるのであり, その先で更に乗り越えなければならない幾つかの壁があるだろう. そして, それらを将来的に乗り越える事が出来るかは自明ではない.

3つ目の方針を取る場合については, どのような事が起こると想定されるだろうか. これは是非, 論法1,2の構造がどのように変化するのかを考慮しつつ, 皆さんにも考えて頂きたいと思う.*5

*1:A=新自由主義である場合については、話がほぼtrivialになるので省略する.

*2:ハーヴェイ流の「新自由主義」かフーコー流の「新自由主義」か, 信念を指すのか状況を指すのか, どのような信念/状況なのか, あるいは議論のスコープがどこまでであるか, 過去の話なのか現在の話なのかを問わず

*3:問題はあるが, 後に述べる点と比べると些細なものである.

*4:余りに自明であるため元記事では述べられていないが, まず直ちに実行すべき事は,「新自由主義批判」の批判者に対してのレッテル貼りを止める事である.

*5:個人的には, 論法1,2の構造がどう変化するかはあまり自明ではなく, 幾つかの可能性があると思っている.

帰納的ゲーム理論(Inductive Game Theory)を学ぶ

この記事では、ブログ主が作成した帰納ゲーム理論(Inductive Game Theory)*1についてのノートを公開しています。

帰納ゲーム理論とは、情報不完備ゲームの定式化の一つで、「各プレイヤーはゲームの構造について事前には無知であり、ゲームを繰り返しプレイする毎に、結果から構造についての情報を事後的に得る」という仮定から、人々の帰納的な認識形成や行動規則を分析し、制度・慣習・規範の発生を捉えようとするゲーム理論の新しい分野です。

ゲームの構造の少なくとも一つがプレイヤー間で共有知識(common knowledge)となっていないゲームを情報不完備ゲーム*2といいます。この標準的な定式化として、Harsanyiによるベイジアンゲームがあります。これは、全プレイヤーが共有する事前分布(common prior)を仮定し、これをゲームのルールの一つに含める事により、「最初に何がどの確率で起こり得るか」は共有知識である情報完備ゲーム(=ベイジアンゲーム)として記述するという定式化手法です。*3

帰納ゲーム理論においては、Harsanyiが導入したようなプレイヤー間の共有事前分布は仮定されず、情報不完備ゲームの完備化も行われません。したがって、情報不完備なゲームをそのまま扱うための新たな分析手法を構築する事になりますが、「全プレイヤーが共有事前分布を持つ」という非常に強い仮定を回避する事が出来ます。

現在はパイオニアワークであるKaneko and Matsui (1999) の内容を途中までまとめています。こちらに加えて、情報プロトコル・情報片・記憶関数*4という新しい概念を用いて帰納ゲーム理論を一般的に定式化したKaneko and Kline (2008b) およびKaneko and Kline (2013)までは少なくともまとめたいと思っています。*5

Section 1.4 以降は工事中となっていますのでご注意ください。順次更新していく予定です。

なお、言語は英語となっています。日本語化は今のところ検討しておりませんが、ご要望があれば……。

 

学ぶ際に参考となるものを挙げておきます:

帰納ゲーム理論の提唱者の一人による著書。経済理論やゲーム理論の根本的な問題点について、戯曲・対話篇形式で書かれたもの。第5曲では「方法論的個人主義」と標準的なゲーム理論との関係を細かく吟味した上で、それを乗り越える帰納ゲーム理論への導入が語られる。英訳版がSpringer社から出版されている。*6

  • 船木由喜彦・石川竜一郎編(2013)『制度と認識の経済学』NTT出版.

金子守先生の業績をまとめた一冊。第7章・第8章では共同研究者たちによる帰納ゲーム理論の入門的な解説が与えられている。また「ナッシュ社会的厚生関数」*7や「ゲーム論理」*8といった、他書ではなかなかアクセス出来ない興味深いトピックについて、丁寧な入門的解説を読む事が出来る。

帰納ゲーム理論の提唱者のもう一人による著書。第16章・第17章では、Kaneko and Matsui (1999) で分析されたフェスティバル・ゲームの簡易版を通して、差別と偏見の発生学という帰納ゲーム理論の原初的なテーマが解説される。

なお、著者は進化ゲーム理論という分野の研究でも世界的に著名である。帰納ゲーム理論とはズレるが、基本理論と様々な応用について解説されており、この分野の手引きにもなる。*9

帰納ゲーム理論のアプローチを、かつて分析哲学の一大派閥であった論理実証主義の観点から再考するというユニークな研究ノート。『制度と認識の経済学』の編著者によるもの。ラッセルおよび論理実証主義の世界観と、帰納ゲーム理論の方法論を比較しつつ、W.V.O.クワインによる「経験主義の2つのドグマ」批判*10に答える形で、帰納ゲーム理論の目指すべき新たな方向性を提案している。2章は、最も簡潔で分かりやすい帰納ゲーム理論の紹介となっており、一読をお勧めする。

過去の論文や雑誌の記事等を閲覧できる。実はこの記事で紹介した論文のほぼ全てはここで閲覧できてしまう。

『制度と認識の経済学』の刊行を記念して行われた、石川竜一郎先生による金子守先生へのインタビューを記事にしたもの。帰納ゲーム理論を含めた「制度と認識の経済学」への壮大な構想が語られる。数式を通さずに基本的なアイデアを知ることが出来ると共に、各氏の人となりも垣間見られる。

 

個人的な疑問や考えをまとめておきます:

  • ゲームのプレイヤーはゲームの構造を事前には知らないが、メタ的な分析者は正しいゲームの構造を知っているという前提に立っていると思われる。応用研究の場合、現実を抽象した「正しいゲーム」もまた分析者の主観的世界であると捉える事も出来るが、このズレはどのように正当化され得るだろうか。
  • 利得関数を知らないという事は自己の目的を知らないという事である。しかし、それがメタ的には最初から与えられているのだとすれば、「本質が実存に先立つ」ような人間像となってしまっている。これを回避するには、利得関数を内在的な選好の表現ではなく、外在的な社会状況の表現と捉えれば良い。
  • 「良くゲームの構造を理解できたと認識しているプレイヤーほど、実験的な行動や他者の経験の観察をしなくなる」という行動習性を入れる事は出来ないか。
  • ゲームのルールについての事前の知識の範囲を変える事で、分析の対象を細かく出来ると思われる。
  • 帰納ゲーム理論において、知識は蓄積されていくものである。そして、各プレイヤーの世界観は、蓄積された知識と矛盾しないように形成されていく。このプロセスにおいて、例えばパラダイム・シフトのような劇的な変化はどのように記述できるだろうか。
  • 陰謀論のような「極端な世界観」を持った主体の成立を説明出来ないか。カナダの哲学者ヒースは、帰納ゲーム理論と非常に相性が良い形式で陰謀論を特徴付けている: "Conspiracy theories are better understood as a particular type of intellectual trap that people can fall into, in which they have enormous difficulty seeing the problem with a set of beliefs that most others regard as arbitrary and unjustified." (p.4) ; "the beliefs are not only acquired through an irrational process, but are also peculiarly resistant to rational critique and revision." (pp.5-6). 下記の解説記事も参照のこと。

    kozakashiku.hatenablog.com

  • 帰納ゲーム理論のアイデアは全体として、ヒュームの認識論に非常に近いと思われる。「ヒュームの認識論の数理化」*11といった宣伝も可能かもしれない。ロックの認識論とも近いが、帰納ゲーム理論は各プレイヤーの初期の行動様式(regular behavior)を仮定するため、「タブラ・ラサ」説とは相容れない。
  • 吉田敬(2021, 勁草書房)『社会科学の哲学入門』p.44に以下の記述がある: 「行為者と制度の相互作用に関してより良い説明を行うことが社会科学においてますます求められている…。」帰納ゲーム理論は、人々の帰納的認識形成と制度の内生的発生を同時に分析する「行為者と制度の相互作用」の理論に他ならない。
  • セラーズの「所与の神話」批判やローティ/ブランダムの反表象主義は、帰納ゲーム理論への強力なアンチテーゼとなり得る。これらの点について十分な整理が必要と思われる。

 

*1:帰納論的ゲーム理論という事もある。

*2:Games with Incomplete Informationという。不完全情報(Imperfect Information)とは区別される。ベイジアンゲームは情報完備な不完全情報ゲームである。

*3:より細かく言うと、確率的に得る私的情報(タイプ, type)を持つ各プレイヤーの主観確率分布(信念, belief)のベイズ更新を仮定し、ゲーム内におけるこの事実と各プレイヤーが持ち得る私的情報全体の集合(タイプ空間, type space)も共有知識とするので、全てのプレイヤーの主観分布体系(信念体系, belief system)も自動的に共有知識となる。詳しくはこちらを参照。

*4:それぞれinformation protocol、information piece、memory functionの訳。

*5:標準的なKuhn流の展開型ゲームの定式化を踏襲したものとしてKaneko and Kline (2008a) があるが、こちらはかなり複雑な定式化となってしまっているので初見では避けた方が良いと思われる。

*6:日本語版の本文では、Game Theoryの訳語としてゲームという訳語が徹底して用いられている。これはSet TheoryやNumber Theoryを集合論や数論と訳す慣習に則している。ゲーム理論という訳語から滲む"高尚さ"のフレーミングを暗に批判している可能性もある。

*7:元論文はこちら

*8:解説論文はこちら

*9:進化ゲーム理論は、ある集団の戦略分布の進化動学と突然変異への安定性という観点から制度・慣習・規範を捉えようとする分野である。帰納ゲーム理論は、「同じゲームを何度も繰り返す設定」「同じ行動を取り続ける主体」という進化ゲーム理論の構造を批判的に継承している。

*10:ここでいう経験主義は論理実証主義を指している。W.V.O.クワインの思想についてはこちらの本に詳しい。

*11:自然化としても個人的には良いが、「自然化された認識論」を掲げるW.V.O.クワインが志向する経験科学には未だ到達していないとも思えるため、数理化とした。

【書評】田野大輔 ファシズムの教室 ーなぜ集団は暴走するのかー

 


オススメ度 ★☆


(※書籍の内容の性質上、読者自身が注意を払わないと、「書籍それ自体に対する評価」と「紹介される授業の内容に対する評価」を混同してしまう。以下のレビューでは、この2つを意図的に切り離し、主に前者について記載する。)

【書籍について】

ナチス時代のドイツ史を専門とする著者が、かつて所属先で開講していた「社会意識論」における講義経験を通して、ファシズムの本質的原因に迫る意欲作。「「社会意識論」の中心的なテーマは、「普通の人間が残虐な行動走るのはなぜか」というものである。」(p.59)

本書の目玉である「ファシズムの体験学習」について解説する第2-5章については、一読するだけで十分伝わるほどに、著者の論旨は明快である。「体験学習」の記述も、迫力があり興味深く読ませて頂いた。この箇所については広くオススメ出来る内容となっている。

一方で、現代社会との接続を試みる第6章は、率直に言って粗雑である。特に「HINOMARU」騒動(というものがあったらしい)に関する記述には、該当のミュージシャンの曲を一度も真面目に聞いた事がない私ですら呆れかけた。「政治的正しさ」への反発という文脈であれば、例えば政権演説の書き起こしやSNSで発信されている文章を広く収集し、統計的なテキスト分析に掛けて結果を考察するなど、ある程度の客観性を担保するようなやり方がありそうなものだ。

いちミュージシャンの言動を問題視する事が、ファシズムへの理解を深めた結果やるような事なのだろうか?例えばインターネット上の炎上騒動など、取り上げるべき問題がいくつもあるのではなかろうか。炎上に伴うバッシングを苦に命を絶つ者も少なくなく、まさに社会問題として扱うに相応しい話題と言える。バッシングに伴う「責任感の欠如」や「多人数による排斥」という点では一見ファシズムと似通っているが、ファシズムにとって不可欠とされる明確な「権威」が存在しないのは特徴的である。つまり炎上事件とは、ナチズム下のドイツには存在しなかったインターネットというインフラが、「ファシズムの分権化」を促した結果生まれた、新たな形のファシズムなのではないか……。

上記はあくまで適当な思い付きに基づく世迷言だが、具体的に何と関連付けて考察を深めるかは、書籍の意義や説得力に直結する。「なぜ今さらファシズムなのか」(p.4)とわざわざ著者自身がハードルを上げている以上、もう少しトピックの選定には注意を払った上で考察を深めて頂きたいと感じてしまう。

最後に、各章のコラムは内容が充実していると感じた。ナチスファシズムに関してのステレオタイプな印象を修正するような内容となっており、素人にとっては新鮮であった。ここについては、著者の研究者としての本領が発揮されていると言えるだろう。

【授業について】

まず事実認識として、著者が講義の中で執り行っていた「ファシズムの体験学習」は、あくまで実験ではなく教育である。しっかり確認したわけではないが、恐らく著者は授業を通して得られた結果を、アカデミックな実験の成果として学術誌で報告するといった事は行っていないだろう。また、第5章を読めば明らかな通り、ナチズムの完全な再現もそもそも意図しておらず、むしろそれを意図的に避けている。「実験になっていない」「歴史は再現できない」といった指摘は的外れである。

また、実習を行うに当たってかなりの配慮をしている事は十分に理解出来た。ナチス式敬礼や掛け声を使用する事は流石にどうかと思っていたが、著者なりのこだわりがあった事、本国においては教育目的であれば犯罪とはならない事、などの理由から納得した。

一方で、学生のレポートやアンケート結果をそのまま受け入れている事には疑問が残る。まず、意欲的な学生が自然と集まってしまうというセレクション・バイアスの懸念がある。加えて、講義という形式上、教員による学生の評価が介在するため、より良い成績を取る事を目的とした学生による、レポート内容の意図的な操作の可能性は避けられない。要は、敢えて教員の意図に沿った内容を書いているのではないか、という当然の懸念がある(実際どうかという話ではなく、その懸念が本質的にぬぐえないという事である)。

講義という形式から離れた場所で、かつ様々なバッググラウンドを持った人々を雑多に集めた上で、改めて「体験学習」の効果を見ると、より面白い試みとなるのではないかと思う。現実的には実現のハードルはかなり高いかもしれないが、個人的には是非とも誰かに試みて欲しい。

【書評】清水和巳 経済学と合理性 ー経済学の真の標準化に向けてー

 

 

オススメ度 ★★★★

「経済学における合理性・非合理性」という、誤解と曲解が蔓延している厄介なテーマについて、懇切丁寧に解説している良書である。「本書の目的は, …標準的経済学の現在と将来を「合理性」をキーワードに説明, 展望していくことにある」(p.3)

200頁に満たない小さな本であるが、ホモ・エコノミクスの仮定が云々とSNSやブログで講釈を垂れる前に、最低限理解しておいた方が良いトピックが詰め込まれている。

数式の使用を控えめにしながらも解説の正確さを損なわないように工夫されており、2022年7月現在、同テーマについては邦書の中でベストな入門書と言えるのではないかと思う。

経済学では通常、合理性という概念は、選好関係上のある公理のセットとして定義される。頻繁に挙げられるのが、完備性・推移性という公理を満たす選好関係を「合理的」選好関係と定義する、というものである。これは最もprimitiveな定義であるが、本書ではこれに留まらず、リスク選好や時間選好を扱う場合の(=公理のセットを拡張した場合の)合理性といった中級のトピックまでがカバーされている。

これにより、第3章で解説される「非合理性」を考慮に入れる理論をクリアに理解出来る作りになっている。経済学において「非合理的である」とは、大体の場合において「合理性を定義する公理のセットのうちどれか1つ以上が満たされない」という意味に他ならない。本書では、「どの公理がどのように満たされないのか」という点を詳細に解説する事で、どのような意味で「非合理的」と言えるのかがクリアになっている。

またゲーム理論について、ゲームの形と各プレイヤーの合理性が共有知識(common knowledge)である事それ自体を合理性の一形態として扱っている点は注目に値する。というのも、共有知識という概念は、「知識の公理(のセット)」を満たす知識関数(knowledge function)から定義されるため、選好関係上の公理から定義される伝統的な合理性概念とは異なる性質のものだからである。凡庸な文献では無視してしまうような話題であるが、本書では利他的選好、質的応答均衡(QRE)、更には帰納ゲーム理論といった先端的理論の解説にまで繋げている。

マクロ経済学のトピックを扱っているのも特徴的である。凡庸な文献では、「現代のマクロ経済学ミクロ経済学のただの応用」と言わんばかりにマクロ固有のトピックを無視してしまう。本書では、誤解されがちな「代表的個人」の仮定と「資産市場の完備性」の仮定との関係を明確にしつつ、HANKモデルや合理的不注意といった最新のマクロ理論の簡単な解説に繋げている。

以上のように、「経済学における合理性・非合理性」に関連する幅広いトピックについて、ハンディに触れる事が出来る優れた入門書であり、このテーマに興味のある全ての人々にオススメ出来る良書である。

ゲーム理論をビジネスに活かすために学ぶべきこと

2023.08.16 追記:

(本ブログとは全く関係なく) この記事の提案内容がほぼそのまま実現した教科書が発売されました!

 

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経験上、修士課程の専攻はゲーム理論でした、と話すと怪訝な顔をされる事が多い。

ゲーム理論をしっかり学んだ人々は、程度の差はあれど、ビジネス社会にとってゲーム理論の知見は有用だと考えていると思う。しかし、我々の想像以上に、ビジネス社会ではそうは考えられていないのが現実である。

ゲーム理論の内容が、依然としてほとんど社会において認知されていない」というのは理由の一つだろう。しかし、私はそれ以上に、既存のゲーム理論の教科書の内容に原因があると思っている。

一般的なゲーム理論の教科書は、囚人のジレンマゲームの説明から始まる。「均衡」というツールの使い方を説明するために、構造が簡単な「ゲーム」から始める訳である。「各プレイヤーの合理的行動が、社会にとって最適でない結果を導く」というストーリーは、読者の興味や学びのモチベーションの喚起にも使いやすい。

ここで、こうした標準的な教科書の内容を、その構造に注目して整理すると、以下の通りとなる。

① 仮想的な状況を考えて、簡単な「ゲーム」を作る。
②「均衡」というツールの使い方とその意味を説明する。
③ 実際にツールを使ってみて、何が得られるかを説明する。
④ 得られた結果を吟味し、ツールの有用性を納得させる。

ここで重きを置かれがちなのは、主に②, ③である。ゲーム理論家が教科書を書く際に重視するのは、「均衡」という強力なツールを正しく理解して、与えられた「ゲーム」の結果を自力で導出・分析できるようになる事である。

私は、この構造には問題があると思っている。

ゲーム理論の教科書的な分析は、「ゲームのルール」を簡単に設定して、それを与えられたものとして進められる(構造の①に該当する)。

しかし、ビジネス実務では必ずしもそうではない、というか多くの場合、皆が納得できる利得関数すら設定する事は難しい。「ゲームのルールに不確実性のあるベイジアンゲームを使えばいいじゃない」という声が聞こえなくもない。しかし、その場合に所与とされるタイプ空間上の事前分布についても、同じ事が言えるだろう。それらの適切な決め方を理解しないと、設定はアドホックにならざるを得ず、対外的に分析の信頼性を持たせる事は難しくなる。

現実の社会現象を説明しようとするタイプの応用研究では、分析結果のもたらす直観が現実と整合的であるか、もしくは何かしらの非自明な示唆があればある程度評価される傾向がある。しかし、ビジネス実務では、分析の前提には(例えば経営者・監査人などから)厳しいツッコミが入るし、アドホックな仮定*1は多くの場合において忌避される。

まず、「ゲームのルール」の適切な決め方を理解し、それを皆が納得できる形で説明する方法を考える事が、ゲーム理論をビジネスに活かすための第一歩だと思う。

一方で、ここはまさに長年の訓練と経験をもって初めて身に付けられる「秘伝の職人芸」とも言える暗黙知である。この暗黙知形式知化していく事で、ゲーム理論のビジネス活用への理解は、飛躍的に高まるのではないだろうか。

最後に、ここまでを踏まえて、改めてビジネスパーソンにとって本当に必要なゲーム理論の教科書の構造は、以下のようになると思う。*2

①' ある現実的問題を取り上げ、その具体的状況を詳細に解説する。
②' その問題をどのように抽象して「ゲーム化」するか、その途中の意思決定を全て含めて詳細に記述する。
③' 計算過程はappendixに回し、その直感と結果のみを本文に記述する。
④' 得られた結果を吟味し、「ゲーム化」の妥当性を検証する。

ここで重きを置かれるのは、従来の教科書では軽視されがちだった現実的問題の「ゲーム化」の方法である(①', ②'に該当する)。重視されるのは、「ゲーム化」という強力な手法を正しく理解して、現実的問題を自力で抽象化し「ゲーム」に落とし込めるようになる事である。

題して『ケースで学ぶゲーム理論』だ。出版社やゲーム理論研究者の方、ぜひ出版・執筆をご検討ください。

*1:ここでアドホックな仮定とは、例えば「各プレイヤーの利得関数はsymmetricで、x(s)を各戦略の組sから得られる財の配分量とすると、u(s)=ln( x(s) )で与えられる」というレベルのものを指す。ここで「簡単だからsymmetricとする」「皆使っているからln(•)を使う」という説明では説明相手に一蹴されてしまうだろう。

*2:書いてみて気が付いたが、これは応用ゲーム理論の典型的な論文の構成とほとんど同じである。

【書評】千葉雅也 現代思想入門 part2

 

valeria-aikat.hatenablog.com


書評にpart2もクソもあるかとは思うのだが、上の記事を書いた後、少し気になる事があったので補足する。

このブログで書評を載せた2日後に著者のTwitterで以下のようなツイートがあった。

 

このブログで書いた書評は、実は全く同じものをAmazonレビューにも載せている。この著者がTwitter上では常にエゴサーチをしているという事もあって、これを見た私は直感的に、これらはもしかすると私のレビューを見た感想ではないかと感じた(自意識過剰だったら本当にごめんなさい)

もしこれらが私のレビューへの感想であれば、はなはだ残念というか、ガッカリに思う。主旨を読みとってくれていないからである。

↑のレビューを読んで頂ければお分かりいただけると思うが、私のレビューの主旨はまとめると以下の通りだ。

この本は「ここで紹介されている思想から得られる具体的な帰結は何か?」という事を十分に示せていない。本来、ポスト構造主義の思想に従うのであれば、抽象的な思想(=直接・パロール的なもの)と同じかそれ以上に、具体的な細部(=間接・エクリチュール的なもの)や、その相互の繫がりをつぶさに探究すべきではないのか。一般向けの仕事としては、その内容を理解する事の効用まで含めて具体的に提示し、説得力を持たせて欲しいと感じる。これは、抽象的な思想を実際にどの範囲で使用すべきかという倫理の問題でもある。

 

私としては、「抽象的な構造をしっかり示」すのは"当たり前"で、その上で具体的な細部やそれらの繫がりを深く吟味すべきではないのか、という事を書いたつもりだった(同じかそれ以上に、という部分にそのニュアンスを含ませた)。

したがって、ただ「具体例をたくさん挙げ」てほしいと言っているわけではない。極端な話、一つの具体例でもいいから抽象的な思想との繋がりを深く吟味してほしい、というのが本来の主旨である。そうした過程を経て初めて見えてくる抽象的構造の本質もあるんじゃないか、と思うからだ(実際、そうした具体例は数学では良くある。そうした具体例を見つけるにはセンスが問われるのだが)。

加えて、そうした姿勢が著者の紹介する「二項対立を脱構築する」という、ポスト構造主義の思想ともマッチするではないか、という所まで一つ踏み込んで書いたつもりだ。ところが著者はツイートでは、抽象-具体の二項対立において、抽象をほぼ一方的に評価するかのような物言いをしている。著者のフォロワー達も概ねこれに賛同している事に驚きである。

最後に、「抽象的な思想を実際にどの範囲で使用すべきかという倫理の問題」についてだが、これは私個人の社会科学的関心からの問題意識だ。率直に言って、理論を具体的な問題に応用するのは、決して簡単ではないし、自由にやっていいものでもない。実際、経済学の理論を下手に使って、実際の社会問題についておかしな結論を出す人を私は山ほど見てきた。ただ「具体例をたくさん挙げ」るという雑な仕事ではなくて、抽象と具体を結びつけるという繊細な仕事を"プロとして"見せて欲しかったのだが、この本にはそれが無かった、という事を伝えたかったのである。