数年ほど本棚で眠っていた戸田山和久先生の『科学哲学の冒険』を読んでいて、ふと「仮説検定の手法ってPopperの反証主義から影響受けてない?」と思い至った。
調べた結果、以下の興味深いブログ記事を見つけた。
記事は「帰無仮説の検定はPopper流の反証主義的手法ではない」とAndrew Gelmanがブログで書いている事を紹介したものだ。
ざっくりまとめると、「研究者が仮説検定を行う時、ほとんどの場合彼らの目的は対立仮説の立証であって、帰無仮説の反駁ではない」というのがその根拠らしい。
そもそもPopperの反証主義は、真偽保存的である対偶を用いた推論(modus tollens)を科学研究の柱とし、真偽保存的でない帰納的推論を科学から排除しようとする試みであった。
つまり、あるAという理論が正しい場合に、Bという観察が得られると期待出来る場合に、「実証的にBという結果が得られたから、理論Aは正しい」という危うげな帰納的推論をするのではなく、「実証的にBという結果が得られなかったから、理論Aは間違っている」という妥当な推論をしようという提案だ。
確かに、もし研究者・実証家が反証主義にのっとって仮説検定を行うならば、彼らが論文で報告すべき事は「帰無仮説が棄却された」事のみであるべきあって、「(帰無仮説が棄却されたため)対立仮説が受容された結果として得られた示唆」であるべきではない。
しかし、実際に論文で報告される事は主に後者であるので、仮説検定を用いる研究者・実証家は反証主義にのっとっているのではない、という訳だ(この推論もmodus tollens)。
記事を読んで思い出したのが、東大出版の『統計学入門』の有意性検定に関する以下の有名な?記述だ(p.237)。
有意性検定は, (帰無)仮説の下でわれわれが期待する結果が生じなかったことを根拠として, 仮説を棄却, 否定することが, おもな内容である. これは論理学では, 背理法といわれているものである.
本では、これが「帰無仮説が棄却されなかった事が帰無仮説が正しい事を必ずしも示唆しない理由」とされているが、今はそこについて議論しない。
論理学者から見れば、仮説検定を背理法の一種とする事には多少の違和感があるのではないかと察するが、それは一旦置いておいてこの記述を認めると、仮説検定の推論的基礎は背理法であって、modus tollensではない。
実際にそれぞれの手順を書き下すとより違いがはっきりする。
反証主義による反駁の手順は以下の通りだ:
1. 理論Aを仮定し、観察Bを推測する(A, A→Bを仮定する)。
2. Bの真偽を観察(実験・データ分析など)によって判断する。
3. Bが偽であれば、理論Aを反駁する。それ以外は何もしない。
仮説検定の推論の手順は以下の通りだ:
1. 得られた無作為サンプルxから検定統計量T_xを計算する。
2. T_xが予め設定した棄却域に入るかを見る。
3. 棄却域に入っているならば, H_0を棄却し対立仮説H_1(not H_0)を採択する。
雑にアナロジーを用いると痛い目を見る事が分かる話だった。
参考文献
1. 東京大学教養学部統計学教室 編『基礎統計学I 統計学入門』東京大学出版会, 1991.
2. 戸田山和久『科学哲学の冒険 サイエンスの目的と方法をさぐる』日本放送出版協会, 2005.
3. 前原昭二『記号論理入門(新装版)』日本評論社, 2005.