エコノミック・ノート

経済学を正確に分かりやすく。あと数学、読書とか。

【書評】佐々木敦 ニッポンの思想 増補新版

 

 

オススメ度 ☆☆

 

80年代に流行したニューアカから始まったとされる、ニッポンの"思想"の一連の流れをざっくりと解説している書籍。タイトルとは裏腹に、本書で実際に扱われているのは狭義の"批評"と呼ばれるものの系譜である。

2009年に刊行された同名の新書に、著者がテン年代と呼ぶ2010年代以降の"批評"の流れが増補されている。元々新書という事もあり、かなり読みやすい文体で書かれている。約400頁とまぁまぁのボリュームがあるが、(私のような)ズブの素人でもすらすらと読み通せてしまうであろう。

本書の冒頭にある、内容を伴わない(?)パフォーマンス性、まるでシーソーのように堂々巡りする変遷の過程、商品として流通するようになった"思想"、といった筆者による"批評"の特徴付けは、やや冷ややかながらも見事である。

過去の資料や事実、そして原文を多く提示している労作である一方で、著者の主観的記述も散見される。ざっと眺めるだけでも、「〜だと思います。」で終わる文がやたらと多い事に気が付くであろう。実際、これは著者も認めるところであり、プロローグには「客観的な通史であろうとするよりも、…筆者自身が直に受け取り得た限りでの…「歴史」を…描き出して」みる試みとある(p.10)。

他書と比較して、扱われる"思想家"は限定的である。例えば山口尚『日本哲学の最前線』では、現代日本の哲学研究者/思想家として國分功一郎、青山拓央、千葉雅也、伊藤亜紗、古田徹也、苫野一徳の6名を扱っている。そのうち本書で扱われているのは國分功一郎、千葉雅也の2名のみである。何故このようになっているのかと言えば、著者が狭義の"批評"の系譜の担い手と認めるのがこの2人のみだからであろう。この点からも、本書が広義のニッポンの"思想"ではなく狭義の"批評"について書かれたものである事が分かる。

したがって、広義の日本の"思想"を体系的にインプットしたいという方にはオススメ出来ない。また、狭義の日本の"批評"にどっぷりと浸かりたいという方にもあまりオススメ出来ない。あとがきにある通り「本書は一種の「入門」」(p.397)という位置付けであり、それ故に各批評家についてはごく表面的な解説しか与えられておらず、それすらも著者による独自の解釈を通したものとなっているからである(無論、興味深い指摘はあるが)。

この本に最も適している読者は、「かつて流行に乗って現代思想にチャレンジしたが当時は挫折してしまった。果たしてあれらは何であったのか、もう一度だけチャレンジしてみたい」という懐古的な層、あるいは「ニューアカやら批評やら良く知らないが、どうやら昔は流行っていたらしい。正直深入りするほどの興味は全く無いが、一応なんとなく位は知っておくべきか」といった(私のように)不真面目な層であろう。実際そのようなニーズは一定程度あると思われ、本書はそうしたニーズを十分に満たしていると思われる。あまり気を張らずにさくっと読むのが良いだろう。

ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』ロードマップ

この記事は、哲学の専門的な教育を受けていない、あるいは今まで哲学にほとんど触れた事のない(私のような)者が、ウィトゲンシュタイン論理哲学論考』を読み進めていくためのロードマップを記したものです。*1*2

論理哲学論考』は『存在と時間』とともに、20世紀哲学を代表する哲学書とされていますが、難解である事で有名です。*3

実際のところ、ウィトゲンシュタイン自身は、彼の師であり、数学史・哲学史に名を遺すB.ラッセルやG.フレーゲも内容を理解していないと嘆いていたようです。

そのような書物を素人が丸裸で特攻して理解出来るはずがありません。先達の力を借りながら、必ず準備をしてから臨むべきと言えます。この記事では、その準備となる(恐らく)最短のルートについて記載しています。

 

 

1. 邦訳版の解説

まずは、下記2つの邦訳版にそれぞれ付録として掲載されている解説を読みましょう。なお、この時点で本文を読む必要はありません。

論理哲学論考』という書物には、ざっくり言ってどのような事が書かれているのか、この先どのようなキーワードを理解する必要があるか、といった読解のポイントとなる事柄を把握する事がこのステップの目標となります。

まずはこのステップを通して、今後の学びの見通しを立てましょう。

なお、岩波文庫版が邦訳のスタンダードとなっているため、本文についてはこちらを主に参照する事になるでしょう。その意味でも、少なくとも岩波文庫版は手元に持っておくのが無難です。

一方の光文社新訳版は、出来る限りドイツ語原文のニュアンスに忠実となるよう訳したものらしいのですが、翻訳者は哲学研究者ではなく独文学者であり、かつAmazonレビューで指摘されている通り誤植も存在するため、本文は参考程度に参照するに留めるのが良いかもしれません。

2. ウィトゲンシュタインの入門書

『論考』に挑むに当たり、ウィトゲンシュタインの生涯と思想についてある程度知っておく事は無駄ではないでしょう。

これらについての入門書としては、以下の2つがあります。

どちらの本も、『論理哲学論考』以外の思考にも触れられていますが、まずは『論考』に絡む部分だけ目を通すとで良いでしょう。

永井本は書かれた時期が古い事に加えて内容にクセがあり、読みやすさは下がる一方で、超越的/超越論的という微妙な区別についての指摘など、独自の視点があるのが特徴です。

一方の古田本はクセがなく読みやすい、良い意味で現代的な入門書となっています。

このステップの目的は、ウィトゲンシュタイン自身の問題意識を知る事、またそれを通して哲学的な問題設定や思考の仕方に「慣れる」事です。

ウィトゲンシュタイン本人はそもそも何をしたかったのか、そのルーツを探って形而上学がどういったものであるのかについての理解を深めましょう。*4

ただし、次のステップで紹介する解説書が非常に読みやすいため、もし時間がなければ、このステップは飛ばしてしまっても良いと個人的に思います。

3. 『論考』の入門書

さて、哲学のやり方にある程度慣れたら、次は本格的に『論考』へ歩を進めましょう。2023年5月時点で、最も読みやすい入門書は以下となります。

ステップ2の古田本と著者が同じであるため、一部内容が被っていますが、こちらの方がより詳細な『論考』の解説書となっています。

思想の骨格となる部分に絞って解説されており、初心者を迷子にさせない優しい作りです。また、本文をほぼ文字通り読むような解説となっているため、ステップ2の古田本と同様にクセがなく、非常に読みやすい解説書となっています。

ここからが本格的な入門となると思ってください。焦らず、ゆっくり丁寧に読み進めていきましょう。

4. 『論考』の一歩進んだ解説書

ここまで来れば、『論理哲学論考』について標準的な理解を得る事が出来ているはずです。

この次のステップでは、敢えて自分の理解を一度疑ってみる事が必要です。

論理哲学論考』には多様な解釈が可能な部分があり、それらの点について別々の視点から考える事で、深い理解に辿り着く事が出来るからです。

以下の本はそれぞれ、独自の解釈を提示しつつ、『論理哲学論考』について自由に批判・修正を試みている本です。したがって、1冊目として読むべきでは無いにしても、一通り把握した上で読む事で理解の助けとなるはずです。

長年定評のあるものとして、以下の2冊があります。

野矢氏は岩波文庫版の訳者で、『論考』を含めウィトゲンシュタイン研究の第一人者です。鬼界氏もまた著名なウィトゲンシュタイン研究者で、『論考』と並ぶもう一つの主著『哲学探究』の訳者でもあります。

また、比較的最近出版されたものとして以下があります。こちらは講義形式の解説書となっています。入門とありますが、内容はここで紹介した入門書よりも高度だと思います (筆者未読)。

参考までに、私は鬼界本→野矢本(→大谷本の予定)の順で読みました。恐らくどの順番で読んでも問題はないと思います。個人的には、鬼界本は独特のアプローチや解釈が多く、最も興味深く読みました。

5. さらなる理解を目指すために

ここまで来れば、初心者からは脱したと考えていいと思います。よく知りませんが、学部のレポートを書く準備くらいは出来ているレベルになっているのではないでしょうか(そんな事なかったらすみません)。

さて、『論考』を語る上でどうしても避けて通る事が出来ないものが一つあります。記号論理学です。

とはいっても、『論考』を読むに当たって求められる知識は初歩の初歩に過ぎません。フレーゲラッセルの記法を知っておく事で十分であり、『論考』の時代に存在しなかったヒルベルト流やNK、シークエント計算といった証明論の知識は不要です。

私の手元にあるもので、独学に向いていると思われる入門書をいくつか挙げておきます。

数学系:

哲学系:

6. さいごに

この記事で紹介した書籍を全て読み終えたならば、『論考』についての邦語の概説書はあらかた読み終えた事になります。次のステップでは研究書に手を出す事になるでしょう。

これ以降は、とりあえずこれを読め!というものはありません。

この記事で紹介した各書籍の巻末等で紹介されている文献案内から、各々の興味に沿って読み進めていくのが良いでしょう。

以上、ここまで読んで頂きありがとうございました。

*1:そもそもそういう人間は読むべきではないという意見もあります。

*2:伝統にならい、表記はウィトゲンシュタインに統一します。

*3:なお、この難解さは読者の読解力の問題ではなく、そもそも本文が曖昧である(=一意に読み取れない)事に由来しているという意見もあります。

*4:なお、哲学研究者や哲学専攻の学生にとっては常識ですが、ウィトゲンシュタインにとっての「哲学」は、他の哲学者にとっての「哲学」とはかなり異質である事は念のため明記しておきます。

『「新自由主義批判」批判』に寄せて

新自由主義」を批判する文脈において, 典型的に見られる問題点をリストアップした記事が公開されている:

kozakashiku.hatenablog.com

 

論点が包括的に整理されており, かつ内容が丁寧なので, この話題についてのベンチマークとなり得る労作である. 一方で, 箇条書きという形式のため, 全体を体系的に捉えにくくなっている感もある.

 

蛇足を承知しつつも, 上の記事で指摘された問題点のリストをストーリー立てて再編集する事で, 更に問題の所在と解決の方向性をクリアにしたいと思う.

 

まずは上の記事を一読して内容を把握して頂き, その上でこのエントリを読んで頂くと, よりスッキリと理解して頂けると思う. というか, 上の記事(以下, 元記事)の内容を前提としたいので, 必ず読んでください.

 

① 『「新自由主義批判」批判』の定義

 

元記事を踏まえて, まずは『「新自由主義批判」批判』が結局のところ何であるのかを簡潔に述べる.『「新自由主義批判」批判』とは, つまるところ以下のような主張である:

以下の論法1,2はどちらも不適切である:

論法1. 任意のA (≠新自由主義) について,

  1. A は新自由主義の一部もしくは結果である
  2. 新自由主義は規範的に悪い
  3. 1かつ2より, A は規範的に悪い

論法2. 任意のA (≠新自由主義) について,

  1. A は新自由主義の一部もしくは結果である
  2. A は規範的に悪い
  3. 1かつ2より, 新自由主義は規範的に悪い*1

ここで以下の2点について注意したい:

  • 上の定義は,「新自由主義」という語彙の実質的意味に依る事なく与えられる. つまり,新自由主義」がいかなる意味で用いられようが*2, この論法は不適切だという主張である.
  • どちらの論法においても, 1∧2→3という推論の規則それ自体に致命的なまでの欠陥はない.*3 問題があるとされるのは推論の過程ではなく, 主張1,2が共に真であるという前提である事が多い.

 

② 論法1,2はなぜ不適切か

 

問題があるとされるのは主に推論の過程ではなく, 主張1,2が共に真であるという前提であると述べた. より具体的には, 元記事の内容をまとめると, 論法1,2が不適切な理由は以下の2点に集約できる:

  • 主張1.を検証する手立てが乏しいか, あるいは存在しない
  • 主張2.を公理として採用すべきかは自明ではない

1つ目の理由は元記事の「検証が不可能/困難」の項目に該当し, 内容は元記事で解説されている通りである. 強調すべきは, ①「新自由主義」という語義自体が曖昧な事, ②定義が乱立している事, ③アドホックに定義を修正出来てしまう事は全て, この1つ目の理由の根拠であると位置付ける事が出来る, という事である. 

2つ目の理由は, 元記事の「規範的根拠が曖昧」の項目に該当する. 元記事では論法1,2が明確に区別されていないが, 論法1の場合についてはジョセフ・ヒースを引用した箇所の前後で解説されている. 論法2の場合については更にその直後で, 「主張2.を公理として採用する」事を一定程度許容しつつも, その場合に乗り越えるべき壁(=1つ目の理由)はあると指摘している. 

 

③ なぜそのような論法がまかり通って来たか

 

では, なぜそのような論法が今までまかり通って来たのだろうか?その理由として挙げられるのが, 元記事で指摘されている以下の2点に他ならない:

  • 新自由主義批判」に対してわざわざ反論する者が少ない
  • 批判者に対してレッテルを貼る事で批判を無効化しやすい

そして, それらの結果として,

  • 賛同する者だけが集まる閉じたコミュニティが作られる
  • 議論を洗練させるための環境が構築できない

という事である.

 

④ 今後どのようにあるべきか

 

では, 「新自由主義批判」はこの先どうあるべきなのか.*4

元記事の終盤では, 以下の3つの方針について述べられている:

  • 新自由主義」の定義を整理して改訂する
  • 定義の混乱は許容しつつも各自で有用と思われる定義を明示する
  • 新自由主義」という言葉の使用を止める

ここで, 仮にこのうちいずれかの方針を取った場合に, 先程述べた

  • 主張1.を検証する手立てが乏しいか, あるいは存在しない
  • 主張2.を公理として採用すべきかは自明ではない

という論法1,2の問題は解消されるのか, という点は確認すべきである. 

まず, 2つ目の方針についてはどうか. 仮に 「私は新自由主義という言葉を私の議論にとって有用なこの意味で用います」と明示したとしても, 例えばウェンディ・ブラウンの議論のように, 明示された定義を元にした議論から実証的含意を得られないのであれば, 1つ目の問題が解消される事はないだろう. 

また, 1つ目の方針を取る場合にも, 定義が改訂され明確になっただけでは, どちらの問題点も直ちには解消されない. むしろ, 定義が明確になる事で, ようやく2つの問題点を解消するスタート地点に立った状態とも言えるのであり, その先で更に乗り越えなければならない幾つかの壁があるだろう. そして, それらを将来的に乗り越える事が出来るかは自明ではない.

3つ目の方針を取る場合については, どのような事が起こると想定されるだろうか. これは是非, 論法1,2の構造がどのように変化するのかを考慮しつつ, 皆さんにも考えて頂きたいと思う.*5

*1:A=新自由主義である場合については、話がほぼtrivialになるので省略する.

*2:ハーヴェイ流の「新自由主義」かフーコー流の「新自由主義」か, 信念を指すのか状況を指すのか, どのような信念/状況なのか, あるいは議論のスコープがどこまでであるか, 過去の話なのか現在の話なのかを問わず

*3:問題はあるが, 後に述べる点と比べると些細なものである.

*4:余りに自明であるため元記事では述べられていないが, まず直ちに実行すべき事は,「新自由主義批判」の批判者に対してのレッテル貼りを止める事である.

*5:個人的には, 論法1,2の構造がどう変化するかはあまり自明ではなく, 幾つかの可能性があると思っている.

帰納的ゲーム理論(Inductive Game Theory)を学ぶ

この記事では、ブログ主が作成した帰納ゲーム理論(Inductive Game Theory)*1についてのノートを公開しています。

帰納ゲーム理論とは、情報不完備ゲームの定式化の一つで、「各プレイヤーはゲームの構造について事前には無知であり、ゲームを繰り返しプレイする毎に、結果から構造についての情報を事後的に得る」という仮定から、人々の帰納的な認識形成や行動規則を分析し、制度・慣習・規範の発生を捉えようとするゲーム理論の新しい分野です。

ゲームの構造の少なくとも一つがプレイヤー間で共有知識(common knowledge)となっていないゲームを情報不完備ゲーム*2といいます。この標準的な定式化として、Harsanyiによるベイジアンゲームがあります。これは、全プレイヤーが共有する事前分布(common prior)を仮定し、これをゲームのルールの一つに含める事により、「最初に何がどの確率で起こり得るか」は共有知識である情報完備ゲーム(=ベイジアンゲーム)として記述するという定式化手法です。*3

帰納ゲーム理論においては、Harsanyiが導入したようなプレイヤー間の共有事前分布は仮定されず、情報不完備ゲームの完備化も行われません。したがって、情報不完備なゲームをそのまま扱うための新たな分析手法を構築する事になりますが、「全プレイヤーが共有事前分布を持つ」という非常に強い仮定を回避する事が出来ます。

現在はパイオニアワークであるKaneko and Matsui (1999) の内容を途中までまとめています。こちらに加えて、情報プロトコル・情報片・記憶関数*4という新しい概念を用いて帰納ゲーム理論を一般的に定式化したKaneko and Kline (2008b) およびKaneko and Kline (2013)までは少なくともまとめたいと思っています。*5

Section 1.4 以降は工事中となっていますのでご注意ください。順次更新していく予定です。

なお、言語は英語となっています。日本語化は今のところ検討しておりませんが、ご要望があれば……。

 

学ぶ際に参考となるものを挙げておきます:

帰納ゲーム理論の提唱者の一人による著書。経済理論やゲーム理論の根本的な問題点について、戯曲・対話篇形式で書かれたもの。第5曲では「方法論的個人主義」と標準的なゲーム理論との関係を細かく吟味した上で、それを乗り越える帰納ゲーム理論への導入が語られる。英訳版がSpringer社から出版されている。*6

  • 船木由喜彦・石川竜一郎編(2013)『制度と認識の経済学』NTT出版.

金子守先生の業績をまとめた一冊。第7章・第8章では共同研究者たちによる帰納ゲーム理論の入門的な解説が与えられている。また「ナッシュ社会的厚生関数」*7や「ゲーム論理」*8といった、他書ではなかなかアクセス出来ない興味深いトピックについて、丁寧な入門的解説を読む事が出来る。

帰納ゲーム理論の提唱者のもう一人による著書。第16章・第17章では、Kaneko and Matsui (1999) で分析されたフェスティバル・ゲームの簡易版を通して、差別と偏見の発生学という帰納ゲーム理論の原初的なテーマが解説される。

なお、著者は進化ゲーム理論という分野の研究でも世界的に著名である。帰納ゲーム理論とはズレるが、基本理論と様々な応用について解説されており、この分野の手引きにもなる。*9

帰納ゲーム理論のアプローチを、かつて分析哲学の一大派閥であった論理実証主義の観点から再考するというユニークな研究ノート。『制度と認識の経済学』の編著者によるもの。ラッセルおよび論理実証主義の世界観と、帰納ゲーム理論の方法論を比較しつつ、W.V.O.クワインによる「経験主義の2つのドグマ」批判*10に答える形で、帰納ゲーム理論の目指すべき新たな方向性を提案している。2章は、最も簡潔で分かりやすい帰納ゲーム理論の紹介となっており、一読をお勧めする。

過去の論文や雑誌の記事等を閲覧できる。実はこの記事で紹介した論文のほぼ全てはここで閲覧できてしまう。

『制度と認識の経済学』の刊行を記念して行われた、石川竜一郎先生による金子守先生へのインタビューを記事にしたもの。帰納ゲーム理論を含めた「制度と認識の経済学」への壮大な構想が語られる。数式を通さずに基本的なアイデアを知ることが出来ると共に、各氏の人となりも垣間見られる。

 

個人的な疑問や考えをまとめておきます:

  • ゲームのプレイヤーはゲームの構造を事前には知らないが、メタ的な分析者は正しいゲームの構造を知っているという前提に立っていると思われる。応用研究の場合、現実を抽象した「正しいゲーム」もまた分析者の主観的世界であると捉える事も出来るが、このズレはどのように正当化され得るだろうか。
  • 利得関数を知らないという事は自己の目的を知らないという事である。しかし、それがメタ的には最初から与えられているのだとすれば、「本質が実存に先立つ」ような人間像となってしまっている。これを回避するには、利得関数を内在的な選好の表現ではなく、外在的な社会状況の表現と捉えれば良い。
  • 「良くゲームの構造を理解できたと認識しているプレイヤーほど、実験的な行動や他者の経験の観察をしなくなる」という行動習性を入れる事は出来ないか。
  • ゲームのルールについての事前の知識の範囲を変える事で、分析の対象を細かく出来ると思われる。
  • 帰納ゲーム理論において、知識は蓄積されていくものである。そして、各プレイヤーの世界観は、蓄積された知識と矛盾しないように形成されていく。このプロセスにおいて、例えばパラダイム・シフトのような劇的な変化はどのように記述できるだろうか。
  • 陰謀論のような「極端な世界観」を持った主体の成立を説明出来ないか。カナダの哲学者ヒースは、帰納ゲーム理論と非常に相性が良い形式で陰謀論を特徴付けている: "Conspiracy theories are better understood as a particular type of intellectual trap that people can fall into, in which they have enormous difficulty seeing the problem with a set of beliefs that most others regard as arbitrary and unjustified." (p.4) ; "the beliefs are not only acquired through an irrational process, but are also peculiarly resistant to rational critique and revision." (pp.5-6). 下記の解説記事も参照のこと。

    kozakashiku.hatenablog.com

  • 帰納ゲーム理論のアイデアは全体として、ヒュームの認識論に非常に近いと思われる。「ヒュームの認識論の数理化」*11といった宣伝も可能かもしれない。ロックの認識論とも近いが、帰納ゲーム理論は各プレイヤーの初期の行動様式(regular behavior)を仮定するため、「タブラ・ラサ」説とは相容れない。
  • 吉田敬(2021, 勁草書房)『社会科学の哲学入門』p.44に以下の記述がある: 「行為者と制度の相互作用に関してより良い説明を行うことが社会科学においてますます求められている…。」帰納ゲーム理論は、人々の帰納的認識形成と制度の内生的発生を同時に分析する「行為者と制度の相互作用」の理論に他ならない。

 

*1:帰納論的ゲーム理論という事もある。

*2:Games with Incomplete Informationという。不完全情報(Imperfect Information)とは区別される。ベイジアンゲームは情報完備な不完全情報ゲームである。

*3:より細かく言うと、確率的に得る私的情報(タイプ, type)を持つ各プレイヤーの主観確率分布(信念, belief)のベイズ更新を仮定し、ゲーム内におけるこの事実と各プレイヤーが持ち得る私的情報全体の集合(タイプ空間, type space)も共有知識とするので、全てのプレイヤーの主観分布体系(信念体系, belief system)も自動的に共有知識となる。詳しくはこちらを参照。

*4:それぞれinformation protocol、information piece、memory functionの訳。

*5:標準的なKuhn流の展開型ゲームの定式化を踏襲したものとしてKaneko and Kline (2008a) があるが、こちらはかなり複雑な定式化となってしまっているので初見では避けた方が良いと思われる。

*6:日本語版の本文では、Game Theoryの訳語としてゲームという訳語が徹底して用いられている。これはSet TheoryやNumber Theoryを集合論や数論と訳す慣習に則している。ゲーム理論という訳語から滲む"高尚さ"のフレーミングを暗に批判している可能性もある。

*7:元論文はこちら

*8:解説論文はこちら

*9:進化ゲーム理論は、ある集団の戦略分布の進化動学と突然変異への安定性という観点から制度・慣習・規範を捉えようとする分野である。帰納ゲーム理論は、「同じゲームを何度も繰り返す設定」「同じ行動を取り続ける主体」という進化ゲーム理論の構造を批判的に継承している。

*10:ここでいう経験主義は論理実証主義を指している。W.V.O.クワインの思想についてはこちらの本に詳しい。

*11:自然化としても個人的には良いが、「自然化された認識論」を掲げるW.V.O.クワインが志向する経験科学には未だ到達していないとも思えるため、数理化とした。

【書評】田野大輔 ファシズムの教室 ーなぜ集団は暴走するのかー

 


オススメ度 ★☆


(※書籍の内容の性質上、読者自身が注意を払わないと、「書籍それ自体に対する評価」と「紹介される授業の内容に対する評価」を混同してしまう。以下のレビューでは、この2つを意図的に切り離し、主に前者について記載する。)

【書籍について】

ナチス時代のドイツ史を専門とする著者が、かつて所属先で開講していた「社会意識論」における講義経験を通して、ファシズムの本質的原因に迫る意欲作。「「社会意識論」の中心的なテーマは、「普通の人間が残虐な行動走るのはなぜか」というものである。」(p.59)

本書の目玉である「ファシズムの体験学習」について解説する第2-5章については、一読するだけで十分伝わるほどに、著者の論旨は明快である。「体験学習」の記述も、迫力があり興味深く読ませて頂いた。この箇所については広くオススメ出来る内容となっている。

一方で、現代社会との接続を試みる第6章は、率直に言って粗雑である。特に「HINOMARU」騒動(というものがあったらしい)に関する記述には、該当のミュージシャンの曲を一度も真面目に聞いた事がない私ですら呆れかけた。「政治的正しさ」への反発という文脈であれば、例えば政権演説の書き起こしやSNSで発信されている文章を広く収集し、統計的なテキスト分析に掛けて結果を考察するなど、ある程度の客観性を担保するようなやり方がありそうなものだ。

いちミュージシャンの言動を問題視する事が、ファシズムへの理解を深めた結果やるような事なのだろうか?例えばインターネット上の炎上騒動など、取り上げるべき問題がいくつもあるのではなかろうか。炎上に伴うバッシングを苦に命を絶つ者も少なくなく、まさに社会問題として扱うに相応しい話題と言える。バッシングに伴う「責任感の欠如」や「多人数による排斥」という点では一見ファシズムと似通っているが、ファシズムにとって不可欠とされる明確な「権威」が存在しないのは特徴的である。つまり炎上事件とは、ナチズム下のドイツには存在しなかったインターネットというインフラが、「ファシズムの分権化」を促した結果生まれた、新たな形のファシズムなのではないか……。

上記はあくまで適当な思い付きに基づく世迷言だが、具体的に何と関連付けて考察を深めるかは、書籍の意義や説得力に直結する。「なぜ今さらファシズムなのか」(p.4)とわざわざ著者自身がハードルを上げている以上、もう少しトピックの選定には注意を払った上で考察を深めて頂きたいと感じてしまう。

最後に、各章のコラムは内容が充実していると感じた。ナチスファシズムに関してのステレオタイプな印象を修正するような内容となっており、素人にとっては新鮮であった。ここについては、著者の研究者としての本領が発揮されていると言えるだろう。

【授業について】

まず事実認識として、著者が講義の中で執り行っていた「ファシズムの体験学習」は、あくまで実験ではなく教育である。しっかり確認したわけではないが、恐らく著者は授業を通して得られた結果を、アカデミックな実験の成果として学術誌で報告するといった事は行っていないだろう。また、第5章を読めば明らかな通り、ナチズムの完全な再現もそもそも意図しておらず、むしろそれを意図的に避けている。「実験になっていない」「歴史は再現できない」といった指摘は的外れである。

また、実習を行うに当たってかなりの配慮をしている事は十分に理解出来た。ナチス式敬礼や掛け声を使用する事は流石にどうかと思っていたが、著者なりのこだわりがあった事、本国においては教育目的であれば犯罪とはならない事、などの理由から納得した。

一方で、学生のレポートやアンケート結果をそのまま受け入れている事には疑問が残る。まず、意欲的な学生が自然と集まってしまうというセレクション・バイアスの懸念がある。加えて、講義という形式上、教員による学生の評価が介在するため、より良い成績を取る事を目的とした学生による、レポート内容の意図的な操作の可能性は避けられない。要は、敢えて教員の意図に沿った内容を書いているのではないか、という当然の懸念がある(実際どうかという話ではなく、その懸念が本質的にぬぐえないという事である)。

講義という形式から離れた場所で、かつ様々なバッググラウンドを持った人々を雑多に集めた上で、改めて「体験学習」の効果を見ると、より面白い試みとなるのではないかと思う。現実的には実現のハードルはかなり高いかもしれないが、個人的には是非とも誰かに試みて欲しい。

【書評】清水和巳 経済学と合理性 ー経済学の真の標準化に向けてー

 

 

オススメ度 ★★★★

「経済学における合理性・非合理性」という、誤解と曲解が蔓延している厄介なテーマについて、懇切丁寧に解説している良書である。「本書の目的は, …標準的経済学の現在と将来を「合理性」をキーワードに説明, 展望していくことにある」(p.3)

200頁に満たない小さな本であるが、ホモ・エコノミクスの仮定が云々とSNSやブログで講釈を垂れる前に、最低限理解しておいた方が良いトピックが詰め込まれている。

数式の使用を控えめにしながらも解説の正確さを損なわないように工夫されており、2022年7月現在、同テーマについては邦書の中でベストな入門書と言えるのではないかと思う。

経済学では通常、合理性という概念は、選好関係上のある公理のセットとして定義される。頻繁に挙げられるのが、完備性・推移性という公理を満たす選好関係を「合理的」選好関係と定義する、というものである。これは最もprimitiveな定義であるが、本書ではこれに留まらず、リスク選好や時間選好を扱う場合の(=公理のセットを拡張した場合の)合理性といった中級のトピックまでがカバーされている。

これにより、第3章で解説される「非合理性」を考慮に入れる理論をクリアに理解出来る作りになっている。経済学において「非合理的である」とは、大体の場合において「合理性を定義する公理のセットのうちどれか1つ以上が満たされない」という意味に他ならない。本書では、「どの公理がどのように満たされないのか」という点を詳細に解説する事で、どのような意味で「非合理的」と言えるのかがクリアになっている。

またゲーム理論について、ゲームの形と各プレイヤーの合理性が共有知識(common knowledge)である事それ自体を合理性の一形態として扱っている点は注目に値する。というのも、共有知識という概念は、「知識の公理(のセット)」を満たす知識関数(knowledge function)から定義されるため、選好関係上の公理から定義される伝統的な合理性概念とは異なる性質のものだからである。凡庸な文献では無視してしまうような話題であるが、本書では利他的選好、質的応答均衡(QRE)、更には帰納ゲーム理論といった先端的理論の解説にまで繋げている。

マクロ経済学のトピックを扱っているのも特徴的である。凡庸な文献では、「現代のマクロ経済学ミクロ経済学のただの応用」と言わんばかりにマクロ固有のトピックを無視してしまう。本書では、誤解されがちな「代表的個人」の仮定と「資産市場の完備性」の仮定との関係を明確にしつつ、HANKモデルや合理的不注意といった最新のマクロ理論の簡単な解説に繋げている。

以上のように、「経済学における合理性・非合理性」に関連する幅広いトピックについて、ハンディに触れる事が出来る優れた入門書であり、このテーマに興味のある全ての人々にオススメ出来る良書である。

ゲーム理論をビジネスに活かすために学ぶべきこと

2023.08.16 追記:

(本ブログとは全く関係なく) この記事の提案内容がほぼそのまま実現した教科書が発売されました!

 

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経験上、修士課程の専攻はゲーム理論でした、と話すと怪訝な顔をされる事が多い。

 

ゲーム理論をしっかり学んだ人々は、程度の差はあれど、ビジネス社会にとってゲーム理論の知見は有用だと考えていると思う。しかし、我々の想像以上に、ビジネス社会ではそうは考えられていないのが現実である。

 

ゲーム理論の内容が、依然としてほとんど社会において認知されていない」というのは理由の一つだろう。しかし、私はそれ以上に、既存のゲーム理論の教科書の内容に原因があると思っている。

 

一般的なゲーム理論の教科書は、囚人のジレンマゲームの説明から始まる。「均衡」というツールの使い方を説明するために、構造が簡単な「ゲーム」から始める訳である。「各プレイヤーの合理的行動が、社会にとって最適でない結果を導く」というストーリーは、読者の興味や学びのモチベーションの喚起にも使いやすい。

 

ここで、こうした標準的な教科書の内容を、その構造に注目して整理すると、以下の通りとなる。

 

① 仮想的な状況を考えて、簡単な「ゲーム」を作る。
②「均衡」というツールの使い方とその意味を説明する。
③ 実際にツールを使ってみて、何が得られるかを説明する。
④ 得られた結果を吟味し、ツールの有用性を納得させる。

 

ここで重きを置かれがちなのは、主に②, ③である。ゲーム理論家が教科書を書く際に重視するのは、「均衡」という強力なツールを正しく理解して、与えられた「ゲーム」の結果を自力で導出・分析できるようになる事である。

 

私は、この構造には問題があると思っている。

 

ゲーム理論の教科書的な分析は、「ゲームのルール」を簡単に設定して、それを与えられたものとして進められる(構造の①に該当する)。


しかし、ビジネス実務では必ずしもそうではない、というか多くの場合、皆が納得できる利得関数すら設定する事は難しい。「ゲームのルールに不確実性のあるベイジアンゲームを使えばいいじゃない」という声が聞こえなくもない。しかし、その場合に所与とされるタイプ空間上の事前分布についても、同じ事が言えるだろう。それらの適切な決め方を理解しないと、設定はアドホックにならざるを得ず、対外的に分析の信頼性を持たせる事は難しくなる。

 

現実の社会現象を説明しようとするタイプの応用研究では、分析結果のもたらす直観が現実と整合的であるか、もしくは何かしらの非自明な示唆があればある程度評価される傾向がある。しかし、ビジネス実務では、分析の前提には(例えば経営者・監査人などから)厳しいツッコミが入るし、アドホックな仮定*1は多くの場合において忌避される。

 

まず、「ゲームのルール」の適切な決め方を理解し、それを皆が納得できる形で説明する方法を考える事が、ゲーム理論をビジネスに活かすための第一歩だと思う。

 

一方で、ここはまさに長年の訓練と経験をもって初めて身に付けられる「秘伝の職人芸」とも言える暗黙知である。この暗黙知形式知化していく事で、ゲーム理論のビジネス活用への理解は、飛躍的に高まるのではないだろうか。

 

最後に、ここまでを踏まえて、改めてビジネスパーソンにとって本当に必要なゲーム理論の教科書の構造は、以下のようになると思う。*2

 

①' ある現実的問題を取り上げ、その具体的状況を詳細に解説する。
②' その問題をどのように抽象して「ゲーム化」するか、その途中の意思決定を全て含めて詳細に記述する。
③' 計算過程はappendixに回し、その直感と結果のみを本文に記述する。
④' 得られた結果を吟味し、「ゲーム化」の妥当性を検証する。

 

ここで重きを置かれるのは、従来の教科書では軽視されがちだった現実的問題の「ゲーム化」の方法である(①', ②'に該当する)。重視されるのは、「ゲーム化」という強力な手法を正しく理解して、現実的問題を自力で抽象化し「ゲーム」に落とし込めるようになる事である。

 

題して『ケースで学ぶゲーム理論』だ。出版社やゲーム理論研究者の方、ぜひ出版・執筆をご検討ください。

*1:ここでアドホックな仮定とは、例えば「各プレイヤーの利得関数はsymmetricで、x(s)を各戦略の組sから得られる財の配分量とすると、u(s)=ln( x(s) )で与えられる」というレベルのものを指す。ここで「簡単だからsymmetricとする」「皆使っているからln(•)を使う」という説明では説明相手に一蹴されてしまうだろう。

*2:書いてみて気が付いたが、これは応用ゲーム理論の典型的な論文の構成とほとんど同じである。

【書評】千葉雅也 現代思想入門 part2

 

valeria-aikat.hatenablog.com


書評にpart2もクソもあるかとは思うのだが、上の記事を書いた後、少し気になる事があったので補足する。

このブログで書評を載せた2日後に著者のTwitterで以下のようなツイートがあった。

 

このブログで書いた書評は、実は全く同じものをAmazonレビューにも載せている。この著者がTwitter上では常にエゴサーチをしているという事もあって、これを見た私は直感的に、これらはもしかすると私のレビューを見た感想ではないかと感じた(自意識過剰だったら本当にごめんなさい)

もしこれらが私のレビューへの感想であれば、はなはだ残念というか、ガッカリに思う。主旨を読みとってくれていないからである。

↑のレビューを読んで頂ければお分かりいただけると思うが、私のレビューの主旨はまとめると以下の通りだ。

この本は「ここで紹介されている思想から得られる具体的な帰結は何か?」という事を十分に示せていない。本来、ポスト構造主義の思想に従うのであれば、抽象的な思想(=直接・パロール的なもの)と同じかそれ以上に、具体的な細部(=間接・エクリチュール的なもの)や、その相互の繫がりをつぶさに探究すべきではないのか。一般向けの仕事としては、その内容を理解する事の効用まで含めて具体的に提示し、説得力を持たせて欲しいと感じる。これは、抽象的な思想を実際にどの範囲で使用すべきかという倫理の問題でもある。

 

私としては、「抽象的な構造をしっかり示」すのは"当たり前"で、その上で具体的な細部やそれらの繫がりを深く吟味すべきではないのか、という事を書いたつもりだった(同じかそれ以上に、という部分にそのニュアンスを含ませた)。

したがって、ただ「具体例をたくさん挙げ」てほしいと言っているわけではない。極端な話、一つの具体例でもいいから抽象的な思想との繋がりを深く吟味してほしい、というのが本来の主旨である。そうした過程を経て初めて見えてくる抽象的構造の本質もあるんじゃないか、と思うからだ(実際、そうした具体例は数学では良くある。そうした具体例を見つけるにはセンスが問われるのだが)。

加えて、そうした姿勢が著者の紹介する「二項対立を脱構築する」という、ポスト構造主義の思想ともマッチするではないか、という所まで一つ踏み込んで書いたつもりだ。ところが著者はツイートでは、抽象-具体の二項対立において、抽象をほぼ一方的に評価するかのような物言いをしている。著者のフォロワー達も概ねこれに賛同している事に驚きである。

最後に、「抽象的な思想を実際にどの範囲で使用すべきかという倫理の問題」についてだが、これは私個人の社会科学的関心からの問題意識だ。率直に言って、理論を具体的な問題に応用するのは、決して簡単ではないし、自由にやっていいものでもない。実際、経済学の理論を下手に使って、実際の社会問題についておかしな結論を出す人を私は山ほど見てきた。ただ「具体例をたくさん挙げ」るという雑な仕事ではなくて、抽象と具体を結びつけるという繊細な仕事を"プロとして"見せて欲しかったのだが、この本にはそれが無かった、という事を伝えたかったのである。

 

【書評】千葉雅也 現代思想入門

 


オススメ度 ★★★★☆


書店やTwitterでやたら顔写真と名前を見かける著者の新著。フランスのポスト構造主義(≒ポストモダン)思想を著者自身の解釈を交えつつ分かりやすくまとめている。

入門のための入門 (p.17) とされており、想定されている読者は全くの素人である。例えば、「ガタリやらデリダやらラカンやら、名前だけは『魔法陣グルグル』に出てくるから知っている、『知の欺瞞』でソーカルにボコられた数学音痴たちでしょ?」という印象を持っている(私のような)人間にもオススメ出来る。というのも、ソーカルが批判したレトリックは基本的には廃され、あくまで思想の骨格を解説するように書かれているからである。

教育的な姿勢も感じられる。それは、ただ次に読むべき入門書を紹介しているという表面上の事についてではなく、プロの仕方を素人に開示するという著者の姿勢についてである。第六章「現代思想のつくり方」および、付録「現代思想の読み方」ではそれぞれフランス現代思想の研究作法を俯瞰的な視点でまとめている。こうした記述は教科書的というよりも講義的である。数学の講義で、教員がその場で考えながら証明を板書する感覚に似ている。

素人ながら興味深く読みはしたのだが、一つ腑に落ちない事がある。これらの思想から得られる帰結は何か?という事だ。著者は、現代思想を学ぶ効用について、「現代思想を学ぶと、複雑なことを単純化しないで考えられるようになります。単純化できない現実の難しさを、以前より「高い解像度」でとらえられるようになるでしょう」(p.12) と書いている。それは例えば具体的にはどのような現実の難しさだろうか?

ドゥルーズの生成変化や古代的ポストモダンという考え方から着想されたらしいタスク処理のライフハックは面白く実践的ではあるが、それによって「単純化できない現実の難しさを、以前より「高い解像度」でとらえられ」ているとは思えない。同性愛を基礎づける事が出来るとする記述もいくつかあり、それらは説得的であるが、応用先がそれ一つだけという事はないだろうと思う。

フーコーの生政治に関する説明では、新型コロナ問題を例に「ワクチン政策は生政治であ」ると批判出来るため、「ワクチン反対派…にも一理ある」とされている (p.99) 。しかし、医療・疫学研究においては一言に反対派といっても、忌避(hesitancy)・拒否(refusal)・親による拒否(parental refusal)等々と様々に分類されており、更にそうした態度を取る理由にも様々な差異がある事が報告されている。ポスト構造主義者が言う通り、「物事は複雑」(p.198) である。具体的な細部をおざなりにする結果、雑な議論になってしまっていないだろうか。

極めつけに著者は、序盤で「現代では「きちんとする」方向へといろんな改革が進んでい」るとしつつ、「具体的にどういう問題があるかと例を挙げると、その例だけに注目して拒絶され、…話を聞いてもらえないかもしれない」と具体的な例を挙げる事自体を避けてしまっている (pp.12-13)。しかし、ポスト構造主義の思想に従うのであれば、抽象的な思想(=直接・パロール的なもの)と同じかそれ以上に、具体的な細部(=間接・エクリチュール的なもの)や、その相互の繫がりをつぶさに探究すべきではないのだろうか。

アカデミックな仕事としては、他人の思想を上手く纏めて紹介したり、それらの新たな解釈を提示したり、というので十分に評価すべきものだろうが、一般向けの仕事としては、その内容を理解する事の効用まで含めて具体的に提示し、説得力を持たせて欲しいと感じる。もしそれが出来ないのであれば、それもまたあり方として肯定する。しかしその場合は、(フーコーのものを除く)これらの思想の多くが社会的問題について、間接的なレンズにはなり得ても、直接的な示唆を与えるためのツールにはならないと素直に認めるべきであろうと思う。強調するが、それが悪いという話ではない。どの範囲で使用すべきかという倫理の問題である。

【書評】重田園江 ホモ・エコノミクス ー「利己的人間」の思想史ー

 

 

オススメ度 ★★★☆☆

 

政治思想史とフーコーがご専門の著者による「ホモ・エコノミクス」という人間観の歴史を辿った著作。「まったくもって自明の存在とは言えない自己利益の主体は、どこから出てきたものなのか。そしてどんな役割を、この社会で果たしてきたのか。これが本書のテーマとなる。」(p.14)

限界革命」を担ったとされる著名な経済学者メンガージェヴォンズワルラス三者による原著とその思想を追う第ニ部は非常に興味深い。この時代の経済学について、時代背景や思想に至るまでここまで丁寧に解説している著作はそう多くはないだろうと思う(自分が知らないだけかもしれないが)。

第三部でゲイリー・ベッカーを取り上げているのも面白い。彼の研究は、結果的に「経済」を経済学が対象とするものの極一部に過ぎないものにし、「社会理論」としての経済学という現在の立ち位置を確立させる一歩となったが、その考え方はかなり急進的で経済学史の中でも特異に映るものだ。フーコーがベッカーについて言及していたというのは知らなかったが、そのお陰でこの著者が彼の特異な試みと思想についてまとめる事となったのであれば、有難い事だ。

このように細部は興味深い一方で、大枠の主張には疑問が残る。著者は「ホモ・エコノミクスが…一つの社会規範として…多くの人に強いているのではないか」(p293) と主張する。しかし、著者がどのような社会でそうなっていると考えているかはこの本からは見えてこない。全世界か、経済学の起源であるヨーロッパか、経済学の拠点となったアメリカなのか、それとも冒頭で就職活動の話をしているからには日本のさらに首都圏なのか。議論のスコープが不明瞭である。

また、この主張を(どこかの社会において)仮に真として受け止めたとしても、その原因を何の検討も経ずに経済学に求めたのは安易だったのではないだろうか。というのも、

①まず率直に言って、本書で紹介されているものを含む経済学の考え方が、人々の精神性に何らかの影響を与える程、広く認知され浸透しているとはとても思えない。経済学の基礎となる学部レベルのミクロ経済学ですら、正確に理解している人々は多くて社会全体の数%ではないだろうか。

②事実として、経済学における合理的経済人は、著者の言うような「行動の…経済的無駄を省き、できるだけ儲かるように…意思決定する主体(p.17)」では必ずしもない。ある種の利他性や不平等への嫌悪をもつ主体など、「できるだけ儲かるように意思決定する主体」とは言えないものも、合理的経済人の枠組みで記述が可能だからだ。

③そもそも経済学にとってホモ・エコノミクスは、言ってしまえばただの「作業仮説」に過ぎない。そこに善・悪といった価値判断はない。あくまで議論を単純化するための「仮説(=仮にそうとするもの)」なのであって、それは経済学にとって「規範(=そうあるべきもの)」ではあり得ない。「単なる仮説がどうして規範性を持つに至ったのか」という著者の主張の裏付けには不可欠な問いに対しては、p133で僅かに語られるのみで、説得的な分析はなされていない。

この結果なのだろうか、代わりにこの著書には経済学について読者に誤解を与えるような記述が多々あるように思う。著者は、経済学についてはあくまで「富の道を追求する人間、貪欲を肯定する世界を…裏側からこっそり擁護し正当化する、ある「科学」」(p.100) としか書いていない。しかし、この本を読んだ多く読者は恐らく、著者の巧みなレトリックにより、「経済学がホモ・エコノミクスを規範として社会に広めてきたんだ!」というような"印象"を持ってしまうのではないだろうか。

また、本著の外部不経済(p193)、アローの定理(pp246-247、pp271-272)に関する記述などはかなり怪しい。しかし、経済学に馴染みのない読者はこの違和感に気が付きにくいだろう。現代の経済学が数学を用いるのは、科学性を装うためというよりも、こうした不明瞭さを防止するためという理由の方が大きい。数学という簡潔さ・明快さに優れた世界共通の言語は、不明確な議論や誤りの発見・防止に役立つと考えられているからだ。自然言語による分析の限界を、著者は図らずも示してしまっている。

最後に、これは細かい事だが、この本におけるグラフの引用目的については疑問を持たざるを得ない。著者はいくつかの箇所でグラフを引用している (ニュートン『プリンキピア』(p176); ベッカー『差別の経済学』(p212); ブキャナン&タロック『公共選択の理論』(p261)) 。図・グラフとは本来、何かしらを理解させるために付されるものであるはずだが、本著においてはグラフを読み解くための必要十分な解説が付されておらず、ただ眺めるだけの"飾り"となってしまっていないだろうか。著者は内容を理解した上でこれらのグラフを載せていると信じたいが、なぜ読者の理解を促すための解説を付さなかったのか疑問に感じざるを得ない。


【以下余談】
本書のアローの定理についての記述はかなり怪しいので、ここで指摘しておく。まず、教科書的な定理のstatementは以下の通りである。


『2人以上の個人と3つ以上の選択肢(社会状態)があるとき、弱パレート効率性 (WP)、定義域の非限定性 (UD)、無関係な選択肢からの独立性 (IIA) を同時に満たす選好集計ルールは、独裁性 (D) を満たす』*1

WP、UD、IIAの詳細は省くが、これらはアローが集計ルールとして望ましいと考えられ得るとした公理で、(数学が分かる人ならば)誰にでも意図が正確に伝わるように、明示的・形式的に定義された概念である。とりあえずなんだか良く分からない独自の概念、というものではない。

さて、上のstatementから分かる事は、アローの定理が「社会的なルールはどのように定められるべきかの条件」(p246) や「個人の選好のセットと両立できる社会のルールが一つに定まらないケースがあること」(pp246-247) を示したとするのはどちらかというと不自然であり、「一般に望ましいと考えられ得る条件を全て満たす集計ルールは、独裁制の一つにしか定まらないこと」を示したとするのが自然だという事である。

したがって、「個人の選択のセットから最適な社会的資源配分を一つに定められるという前提をとっていた厚生経済学に、大きな打撃を与えた」(p247) という記述も少し怪しい。選好と選択は異なる概念なので、「個人の選択のセット」という言葉遣いも微妙である。

次に、著者は「そもそもパレート最適が最善の政治的決定なのかどうかはとても怪しい」(p272) とする。しかし、アローの置いた公理WPは、実のところ非常に弱い要請である。これは、以下の定義を見るとよりはっきりする。

『WP: 全ての個人がxをyより望ましいとするならば、集計結果もxをyより望ましいとする』


ここでx, yは任意の社会状態(例えば資源配分)である。WPを否定するという事は、例えるならば、「ある政治家A, Bについて、国民全員がAの方がBよりも首相に相応しいと投票した」としても、「選挙の結果としては政治家Bの方が首相に相応しいとする」という集計ルールを許容するという事になるのだが、そのような選挙は果たして許されるのだろうか。

WPは、その内容から「全会一致性」とも呼ばれる。民主的な集計ルールを考える上で、最善どころか必要最低限とすら私には思えるのだが、著者はどのような事を想定して「とても怪しい」と感じたのか、気にならずにはおれない。

*1:ここで選好集計ルールとは、可能な社会状態全体の集合\(X \)上の、個人\( i (1 \le i \le n) \)の持つ選好関係の集合\(D_i\)の直積\(D=\times_{i=1}^n D_i \)の部分集合から、同じく社会が持つ\(X \)上の選好関係の集合\(R\) への関数\( f \)である。つまり、一つの選好関係のセットが与えられた時に、それらを「何らかの形」で集計して、社会全体としての選好関係を出力するものである。WP、UD、IIAといった諸条件は、「何らかの形」として望ましいと考えられる集計ルールの条件である。